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岩手・盛岡 / 旧第九十銀行(現「もりおか啄木・賢治青春館 」)・2 内部

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●1階
 営業室(常設展示室)

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 金庫室(音と光の体験館)

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 応接室(街並展示室)

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 頭取室 頭取専用の小さな金庫の扉があります。(体験学習室)

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●2階
 総会室(展示ホール)

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[当時の銀行建築においては、営業室が吹き抜けであることが原則。
それに対して第九十銀行の営業室は1階部分のみで、2階部分に「総会室」を設けているのが、大きな特徴です。
コミュニティバンク(巨大銀行に対し、地域企業の生命線となるコンパクトな銀行)という概念を象徴するかのような、株主が集う場の「総会室」は、精神性においても後に続く「大正デモクラシィ」の先駆の象徴とも言えましょう。

            ーー「もりおか啄木・賢治青春館HPより転載ーー

旧第九十銀行の内装も外観と同様、ロマンチックな造りです。
古典建築様式をベースにしながら、シンプルでキリッと締まった印象。

天井や総会室の暖炉につけられた桜の花を思わせるモチーフは、第九十銀行の社章だったそうです。
どこの部屋にも暖炉がありますが、デザインがアールヌーヴォーっぽい・・・

現在、内部は石川啄木と宮沢賢治の業績を展示する文学館になっています。


                  (中ノ橋通1丁目 2013年10月15日)



岩手・盛岡 / 旧盛岡貯蓄銀行(現・盛岡信用金庫本店)

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●1994年撮影

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●国立国会図書館近代デジタルライブラリーより 「盛岡案内」昭和元年(1926)刊
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盛岡市指定保存建造物No.10

名称:旧盛岡貯蓄銀行(現盛岡信用金庫本店)
昭和2年(1927)12月17日竣工
設計:葛西萬司
施工:中沢三蔵ほか(盛岡市)
構造形式:鉄筋コンクリート造3階建
外観材質:花崗岩
面積延長:1038屐扮箴果明僉
用途:銀行店舗
建築依頼主:盛岡貯蓄銀行
事業費:21万1566円17銭
所有者:盛岡信用金庫

 盛岡市出身の工学博士・葛西萬司の主宰した葛西建築事務所により設計および監理された建物であり、1927年12月17日竣工。(1927年12月17日・19日付岩手日報による)

当時の記録によれば、施工関係者は次のとおりである。
((株)盛岡貯蓄銀行本舘建築費内訳明細表による)

鉄筋コンクリート、建築工事:中沢三蔵
煉瓦工事:高瀬新太郎
造作工事:横溝豊吉
左官工事:川島金次郎
設備(暖房)工事:三機工業
塗装工事:中村八十吉
金物工事:山田信介
硝子工事:玲光社
石工事(花崗岩):中村嘉七
石工事(大理石):矢橋大理石

建物の主体構造は鉄筋コンクリート造で、主要部は2階建。
一部に中2階、中3階の小室を有し、屋上階は鉄骨造で建物前面の重要な意匠を兼ねている。
建坪は約540平方m、延床面積は約1038平方mである。
基礎は鉄筋コンクリートで、柱部分では地下約2m、柱間の外壁は煉瓦1.5から2枚積の外側に厚6センチメートルの花崗岩が貼られている等が1976年の改装時に確認されている。(1976年増改築設計図書─久慈一戸建設設計事務所による)

なお、附属棟の外壁仕上げは、人造石洗い出しとなっている。
屋根は陸屋根で,当時モルタル防水であったと思われる。

意匠的には外観に新古典様式の様相を呈しているが、全体として近代デザインの流れの中にある構成と考えることができる。

すなわち、建物前面の列柱・軒蛇腹の装飾、その他古典的な意匠の装飾石彫で壁面を飾っているが、列柱の柱頭は古典様式にその類を見ない新しいものであり、また、建物全体を積み上げていくような構成は、20世紀初頭の近代建築の手法の影響が強いと考えられる。

さらに、内部の営業室の照明器具、柱頭の装飾などは竣工前年(1925年)パリで開催された装飾美術博覧会で一世を覆った、いわゆる25年様式の近代デザインの影響下にあると考えられる。

2階各室のドアの色ガラスと柱および天井ボーダーの石膏レリーフ文様などの装飾にも同じ傾向が現れている。

暖房は、当初より各室にスチームを設備しボイラー室を地下室として設けている。
窓は三連の外開きのスチールサッシュであり、シャッター設備も施されていて、ほとんど現代のビル建築の形式を整えている。 (盛岡市)

盛岡に残る近代の銀行建築。最後は「旧盛岡貯蓄銀行本店」です。

設計は盛岡市出身の葛西萬司。
葛西萬司と言えば、明治末期に辰野金吾と共に辰野葛西設計事務所を設立し、
その後数々の傑作を造ってきましたが、辰野の没後に自らの建築設計事務所を開設。
その作品のひとつがこの銀行店舗というワケです。

共同設計した「旧盛岡銀行」とは斜め向かいになる位置関係。

当時の銀行建築で見られたギリシャ風の要素を取り入れ、正面外壁には6本のオーダーがあり、外壁にはレリーフをはめ込み、銀行らしい重厚で誠実な印象を受けます。

辰野との共同設計「旧盛岡銀行」から、この「旧盛岡貯蓄銀行」へ・・・
竣工は、16年後の事ですが、煉瓦からコンクリートへという一大変化が建築で
起きていたことが一目瞭然。
この、ギリシャ神殿風という外観も、時代と共に消えていくんですけどね・・・


『貯蓄銀行』という名称は、古い銀行建築を調べていると、しばしば出て来ます。

貯蓄銀行とは、文字通り個人の貯蓄を引き受けることを目的とする金融機関。
19世紀に、欧米諸国で誕生し、庶民に対して倹約の奨励、貯蓄で生活安定を図る
公益的な金融機関だったとか。

日本の貯蓄銀行は明治13年(1880)に開業した「東京貯蔵銀行」に始まり、
明治26年(1893)に法制化され、20世紀初頭に隆盛をみた。
その後は普通銀行への転換・合併が続き昭和24年(1949)に消滅。
昭和56年(1981)に法制上廃止された。

その結果、相当する日本の貯蓄金融機関は郵便貯金のみとなった。

郵便貯金は世界貯蓄銀行協会(WSBI)にも加盟する世界最大の貯蓄銀行だったが、
郵政民営化(2007)による「ゆうちょ銀行」の発足により消滅した。

庶民的な市民バンクという立場の機関だったんですね。
金融機関側とすれば、もう市民の貯蓄だけでは立ち行かない時代になったのか?


「盛岡貯蓄銀行」も、昭和10年(1935)「岩手貯蓄銀行」と名称を変え、
昭和18年(1943)陸中銀行と合併「岩手殖産銀行」を経て、岩手銀行となった。

この建物は、昭和33年(1958)に「盛岡信用金庫」が建物を譲り受け、本店となった。

盛岡信用金庫の前身となる「盛岡信用組合」は、盛岡開府と同時期の江戸初期・慶長年間創業と伝えられる。
盛岡城下の老舗「十一屋」の子「高橋伊兵衛」が初代組合長となり、発足。

以後、明治36年(1903) 「盛岡信用組合」として設立。
昭和26年(1951)信用金庫法に基づき「盛岡信用金庫」に改組、現在に至る。


盛岡は、昔から近江出身の豪商が経済を牛耳ってましたから、
金融業界も、他の地方よりその動きが突出していたような気がしました。


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                   (中ノ橋通1丁目 2013年10月15日)



4月になりましたねぇ・・・

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4月1日(火)

とうとう、4月になりましたね。今日から消費税が値上げ・・・
         い~え、エイプリルフールですよ~、なんちゃって
                  それがホントだったら良いのにね。


ここ数日の駆け込み需要はすごかったですね。みんなパワフルだわ~~

ガソリンの値上げは、営業車を所有している会社などは、分かる。
ガソリン使ってガソリン入れて、一般家庭で満タンにしたっていつまで保つのか?

定期券は、私も使っていたら考えるかな・・・残り期間が問題だけど。

TVで皆さんが買っている物を見てると、どれくらい家計の節約になってるのか?
雰囲気で、私も買っておかなきゃという、気分節約みたいに思える・・・

家の周囲のファミレスやコンビニの状況を見てると、
毎週土・日にはクルマで外出して、外食をしてというファミリーは多い。

でも、月一回でも、家族でユックリ、家で過ごすだけで、
     駆け込みの買い物の値上げ分くらい、チャラになるんじゃない??

あくまでも、私の見方ですけどね・・

で、お前は買いだめしなかったか?と言われると、正直やってました。

録画用のDVDが在庫切れになったので、ついでにBDーRを買ったのと、
定期購入している化粧水やクリームなどの基礎化粧品を、
         オススメされるまま、1回分前倒しにしたことくらいです。


そんなことより
消費税値上げに隠れているけど、医療や福祉の負担が増えるほうが問題ですよ。

自分に振り返ってみると、この先、得なことはゼロだもん・・・

消費税の名目って、一体なんだったっけ
             さくら咲けども、心はチョッとブルー


気分を変えて・・

春は山菜の季節。
最近「うるい」をよく見かけるようになって、今年はもう二度食べました。

山菜独特の苦味が少なくて、苦手な人も大丈夫。
ぬめりがあって、美味しいですよ。

以前、酢味噌和えを紹介しましたが、今回はごま味噌和えにしました。
ゴマが入った方がコクがあって美味しいです。



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私のごま味噌は、味噌、みりん、すりごま、ねりごまを合わせます。
配分は、お好きなように・・・



One Day Trip ~そうだ 身延、いこう~

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4月2日(水)晴れ後曇り

山梨県・身延町の「身延山久遠寺(みのぶさん くおんじ)」へ、さくらを観に行って来ました。

山梨県といっても、ウチからだと県内に行くより時間は掛からないんですよ。
鉄道だと、各停で甲府と浜松へ行く時間が、ほぼ同じです。

身延の桜は一度見たいと思っていました。
見頃になって来たし、雨の予報もあるしということで、昨日行って来ました。

身延へはJR身延線で向かいます。
駅のホームで自販機を見たら、しっかり10円値上がりしてたわ~

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夏の外出では、一日3~4本ぐらい買いますからね・・・
1週間で280円UPか~、2本くらい損するワケかぁ、なんて計算してしまった。


そうそう、身延線で北に向かっていくと、チラチラ富士山が見えてきますが、
私のオススメ富士山ビューポイントは「沼久保駅」を少し過ぎた左側です。
おあつらえ向きに開けていて、眺望抜群

とーっても、広大な富士山と愛鷹山の連なりが、ドーンとみえますよ。
その大きさはハンパじゃないので、機会があったら見て下さい!

さて、身延駅について、バスで身延山に向かいます。
久遠寺というのは、日蓮宗の総本山で、日蓮の骨を収めたお堂なんかもあります。
確か、幼なじみのお寺の子が、ここで修行してたと記憶してます。

三門に向かって参道を歩いて行くと、もう桜がお出迎え・・・

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案内所で聞いたら、樹齢400年の名木は、まだこの上の本堂にあるという
階段か坂道を登った先だそうで・・・
階段は苦手なので、坂道(男坂)を上がって行ったが、途中で階段と合流。

結局、階段を上ることに・・・

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これが、壁のような、ものすごい急角度と段数で、途中からでも百段以上です。
知らない者同士でも、お互い慰めつつ・・・なんとか意地で登り切ります。


とうちゃこ~~ 

花見客でいっぱい! ちなみに、お寺の境内なので飲酒できませんからね。

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これが、有名な身延山の枝垂れ桜です。
樹齢400年という老木で、以前はもっと大きかったとか・・・

境内の他の桜はもちろん、
これにちなんでか、途中の街路樹も枝垂れ桜が多いです。

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三門までの帰路は、巡回バスで戻ります。
階段や坂は下りがきつくて、膝やももを傷めることが多い。
久しぶりの外出で鈍った体には、安全第一ということで・・・

桜のトンネルも楽しめる。

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お昼を過ぎて曇ってきたら、やはり少し肌寒くなって来ました。

バス停には団体さんのシャトルバスが待機していて、
                 次々にどこかへ客を運んでいく。

バス1台につき一人、一休さんみたいなお坊さんが乗っていく。これも修行か?
お寺もこの時期は大サービスだな~

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参道で、身延まんじゅうや信玄餅など買って、再び路線バスで身延駅へ戻ります。


身延駅は、七面山(しちめんざん)の登山口ですから、山男・山ガールはご存じでしょうかね?

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身延は湯葉も名物で、湯葉丼などを食べさせるお店もあります。
再び、駅前の商店で、大好物の鮑の煮貝と生湯葉を買いました。
消費税が上がったというのに・・・


列車の出発まで時間つぶしにちょっと通りを歩いてみる。
「しょうにん通り」と名付けられ、昔風の建築で整備されていた。

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マンホールの蓋もさくらだった。

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川は「桑柄川(くわがらかわ)」というそうで、
          これも富士川の支流なんだろうな~

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ここに咲いていたのは、八重の枝垂れ桜だった。

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身延山の桜も、きっと今週の土日で見納めかと思います。

とにかく、平日にもかかわらず混んでました。
                桜は、消費税に関係ないからね~


今年の桜は、これにてオ・シ・マ・イ


* 境内の桜は、拡大して記事にしますので、気になった方はご覧下さい。


身延山・久遠寺のさくら(山梨県)

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●三門

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●境内にて

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●川沿いの道

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     枝垂れの桜 天から 降るのごと    (明亭久)



                       (身延町身延 2014/04/02)


                     *写真はすべてやや大きくなります


岩手・盛岡 / 旧盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部農業教育資料館)・1 外観

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●旧図書館(現・岩手大学ミュージアム本館)

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「岩手大学ミュ-ジアム本館」は「旧盛岡高等農林学校」の校舎の一部で、盛岡高等農林学校が創設された翌年、明治36年(1903)図書室として建築された建物です。

昭和初期には2階建ての書庫が増設され、昭和46年(1971)に岩手大学中央図書館が建設されるまでの70年間、高等農林から岩手大学を通して図書館として使用されてきました。
明治36年(1903)に建設されて以来、平成15年(2003)で100年目を迎え、宮澤賢治も学んだこの建物が、岩手大学ミュージアム本館として岩手大学の「教育研究成果」紹介の場という新たな役目を担って蘇ったものです。

                 ーー岩手大学ミュージアムHPより転載ーー



●北水の池

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●旧盛岡高等農林学校本館(現・岩手大学農学部農業記念館)

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国指定重要文化財(1994.07.12)

名称:岩手大学農学部(旧盛岡高等農林学校) 旧本館
         (いわてだいがくのうがくぶ きゅうほんかん)
大正元年 ( 1912)竣工
設計:文部省
施工:不詳
構造・規模:木造、建築面積500.82屐二階建、スレート葺
所有者・管理者名:文部科学省

「岩手大学農学部(旧盛岡高等農林学校)旧本館」は,明治45年(1912)5月に着工、同年(大正元年)12月に竣工しました。
工事の設計管理は、旧文部省の営繕組織の技手であった谷口鼎(たにぐちかなえ)が担当しました。
明治期に設置された国立の専門学校の中心施設のうち、現存する数少ない遺構のひとつです。
また門番所は,開校時(明治35年(1902)3月設置)の建築と推定されます。

旧本館は、正面32.8m、側面14.6mの木造2階建で、広大なキャンパスの中央南寄りの植物園北端に位置し、南面して建ち、中央に玄関が取り付いています。
外壁は下見板張り,寄棟造りの屋根はスレート葺です。

2階全体が講堂で、1階は中央に東西の廊下があり、両端に階段を設けています。
廊下両側は、正面中央の玄関ホールを除き各部が部屋となっています。
小屋組はトラスで,照明器具も当初のものが残っています。(盛岡市)

この建物は、我が国最初の高等農林学校として、明治35年(1902)に創立された盛岡高等農林学校の本館として、大正元(1912)年12月に建てられました。

青森ヒバを用いた明治後期を代表する木造二階建ての欧風建築物です。
当時、一階は校長室、事務室、会議室に、二階は大講堂として諸学校行事に使われていました。

昭和24年(1949)学制改革により岩手大学発足後、大学本部として使われていましたが、昭和49年(1974)に本部が現在地に移転し、昭和52年(1977)同窓生等の寄金により改修が行われ,農業教育資料館として使用されています。

その後平成6年(1994)国の重要文化財に指定され、ほぼ設立当時の状態に大修復が行われ現在に至っています。

この旧本館は、明治期の形を伝える国立専門学校の中心施設として現存する数少ない遺構の一つであり、我が国の学校建築の歴史を知る上で貴重な建物です。
                       (農業教育資料館HPより転載)



盛岡駅から少し離れた静かな環境に、岩手大学農学部があります。

前身は「盛岡高等農林学校」で、宮沢賢治がここで学んだことで有名。
森のなかを歩いて行くと、古そうな建物が見えて、これがそうか?と思いましたが、当時の図書館で、現在はミュージアムでした。

旧本館は、竣工当時の姿を留め、現存する数少ない国立専門学校施設ということで国重要文化財に指定されています。

木造2階建て、寄棟、スレート葺きで、屋根には大きな棟飾りが付いています。
外壁は下見板張りで、縦のラインやアーチ、要石ふうデザインなど、要所要所の色を変えて、外観に変化を与えています。

窓は縦長の上げ下げ窓、張り出た玄関上部をバルコニーにして手摺を廻しています。

現在は岩手大学農学部附属農業教育資料館となって、農業関係や宮沢賢治の資料を展示しています。
旧図書館、百年記念館ともに、本館とカラーを合わせているようですね。


●百年記念館

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「百年記念館」は、盛岡高等農林学校創立25周年記念事業の一環として、
昭和3年(1928)に建設された。
当初は同窓会事務室として利用され、皇族の休憩所にも使用されたという歴史を持ち、
北水会事務所、農学部附属演習林事務室と変遷して来た。
外観は、木造2階建て寄棟、下見板張りで、旧盛岡高等農林学校に似ています。

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また、本館と合わせて門番所と旧正門も、重要文化財に指定されているそうです。
今回は見てきませんでした。

イメージ 21名称:岩手大学農学部(旧盛岡高等農林学校) 門番所
      (いわてだいがくのうがくぶ もんばんじょ)

明治35年( 1902)頃竣工
構造・規模:木造、建築面積27.27屐鉄板葺

門番所は,正面が八角形の事務室で,後方は方形の突出部(和室・事務室)が取り付く小規模な建物です。
木造で、外壁が下見板張り,屋根は鉄板葺です。
これと併せて保存されている旧正門は、門扉が失われていますが、門柱3本と土塁が残っています。
旧本館、門番とも改造が少なく、保存状況も良好で、わが国の学校建築の歴史を知る上で、重要な建物です。(盛岡市)


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(「盛岡案内 1928刊」国立国会図書館近代デジタルライブラリーより転載)


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15=農業教育資料館(旧盛岡高等農林学校本館)
21=温室
24=北水の池
27=岩手大学ミュージアム
28=旧正門・旧門番所


                   (上田三丁目 2013年10月15日)


岩手・盛岡 / 旧盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部農業教育資料館)・2 内部

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●1F
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 旧校長室

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●2F

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青森ヒバを用いた明治後期を代表する木造二階建ての欧風建築物です。
当時、一階は校長室、事務室、会議室に、二階は大講堂として諸学校行事に使われていました。
昭和24年(1949)学制改革により岩手大学発足後、大学本部として使われていましたが、昭和49年(1974)に本部が現在地に移転し、昭和52年(1977)同窓生等の寄金により改修が行われ,農業教育資料館として使用されています。(農業教育資料館HPより)

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玄関を入ると、正面の百年以上時を刻んできたという大時計と、創建当時の屋根飾りが目に入ってきます。

一階の各展示室には、盛岡高等農林創設当時の資料、その当時の研究資料や標本などが展示されています。

宮沢賢治が在学中に学んだ教材、地質調査や得業論文作成時に使用した実験器材、彼が採取してきた岩石や作成した岩石薄片標本なども展示されています。
私の記憶が確かなら、彼は首席で卒業したんでしたよね?

ここ、盛岡高等農林の主な研究テーマは、なんといっても寒冷地東北での農業に対する取り組みだったようです。
玉利初代校長「凶作の研究」や関豊太郎博士の「凶冷気象の原因研究」として始まり、現在の岩手大学の研究・教育へと受け継がれているとのこと。

二階は、ワンフロアで講堂になっていたそうです。
真鍮製のシャンデリアのある広大な空間、大礼服を着た歴代校長の肖像画が掛かっています。
写真では分かりにくいですが、大正6年(1917)外国製のアップライトピアノがあり、今も現役だそうです。

館内のパネルに、外壁色の変遷が紹介されていますが、やはり時代と共に変わっていたんですね。 戦争中に黒く塗られなくてよかった・・・

函館の擬洋風建築のように、壁の擦りだしをしたんでしょうか、
あなたはどの色がお好き?(^_^)b


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*展示資料の撮影は禁止です


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                     (上田三丁目 2013年10月15日)


湯葉とたけのこのあんかけ丼

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     祝 三陸鉄道全線開通


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鉄道ファンとしては、嬉しいですね~

私も、三陸鉄道は、二度ほど乗ったことがありますよ。
「あまちゃん」や東日本大震災の起きた、ずっとずっと前で、
                  まだ海も周囲も長閑だった頃でした。

最初は、田老町にあった国民宿舎に泊まったので、南リアス線ですかね・・・
朝起きて見た海の景色に、とても感激しました。

長年の赤字とか、住民が近くに居なくなったなど、
いろいろ問題は山積みだそうですが、どこかの地方鉄道にあった言葉を借りれば、
「乗って守ろう三陸鉄道」しかないですね。

こちらからは遠くて、なかなか乗りに行けないのが残念ですが・・・
フットワークの軽い鉄ちゃんはぜひ!

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           (図はYahooの東日本大震災3年特集から引用しました)



私の近況というと、家の修繕工事が終盤で、4月15日には完了の予定です。
足場などの解体・撤収に、また5日くらい掛かるとすると、
                    実質あと数日で終わると思います。

4月1日には、南側ベランダが完了したのですが、
我が家は床の半分くらいに塗りむらがあり、気泡が潰れたような穴がポツポツとあったので、再度塗ってもらいました。

きょうから、荷物を戻しますが、2か月も広々したベランダを見てくると、
       もう、ゴチャゴチャさせたくないな~と思う今日この頃・・・



さて、先日のお花見のときに、お土産に買ってきた身延の生ゆばで、湯葉あんかけ丼を作りました。

薄めのやさしいですが、お腹にもやさしい・・・ホッとする味です。


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湯葉とたけのこはお好みの量で
出汁は200cc~300ccくらいで、固めにするか、つゆだくにするかもお好きに

私は、いつでも出汁が使えるように、煮干し2本と干しシイタケ1枚、昆布3㎝を水といっしょにボトルに入れて冷蔵庫に保存しています。(2~3日は持ちます)

●作り方
1,たけのこを厚さ5mmくらいに切り、だしとともに小鍋に入れる。
2,弱~中火で煮立ってきたら、湯葉を入れて約1~2分煮る。
  醤油と塩はほんの少しで、あまり味を濃くしない方がいいです。
3,水溶き片栗粉をいれ、混ぜながら良いとろみがつくまで少々煮る。

色味が寂しいので、スナップえんどうを飾りました。
おろし生姜やわさびを添えてもいいですね。


岩手・盛岡 / 岩手県公会堂・1 外観

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●正面

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●側面(西口)

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●裏面

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国登録有形文化財(2006.10.18)

名称:岩手県公会堂(いわてけんこうかいどう)
昭和2年(1927)竣工
設計:佐藤功一
施工:吉田与八ほか
構造・規模:鉄筋コンクリート造地上2階地下1階建、建築面積1580屐塔屋付
所有者・管理者名:岩手県・特定非営利活動法人いわてNPOフォーラム21
敷地中央にほぼ南面して建つ。間口44m,奥行48mの規模で、RC造2階建、陸屋根とする。
玄関奥を階段室、その奥を中庭とし、後部に大ホールを置く。
中央に6層の塔屋を設け、外壁をスクラッチタイル貼とし、外部に柱形を現して垂直性を強調する。
岩手県公会堂は、皇太子であった昭和天皇の御成婚を記念して建設が計画され、大正14年(1925)9月の着工から昭和2年(1927)6月の竣工まで、約2年の工期と総額43万8000円の建設費を投じて建設されました。

設計は、東京の日比谷公会堂や早稲田大学大隈講堂の設計で知られる佐藤功一博士で、近代コンクリート建築の先駆けでした。

創建当時の公会堂は、県会議事堂・大ホール・西洋料理店・皇族方の宿泊所と、4つの用途を備えていました。
間口44m、奥行48mの規模で、鉄筋コンクリート造地下1階地上2階建、陸屋根となっています。
玄関奥を階段室、その奥を中庭とし、後部にホールを置きます。
中央に高さ約24m・6層の塔屋を設け、外壁をスクラッチタイル貼とし、外部に柱形を現して垂直性を強調しているのが特徴です。

幾度かの改修が行われましたが、内部には漆喰の美しいレリーフや、優雅な曲線のバルコニーなど、創建当時の面影を伝えるアール・デコ様式の意匠が残されており、現在も会議室を主体とした施設として市民・県民に利用されています。(盛岡市)

盛岡市の官庁街に、公会堂は建っています。
当時は、東北一の県施設を誇っていたとか・・・

縦のラインを強調したスッキリした印象です。

設計は、東京の日比谷公会堂・市政会館や大隈講堂を設計した吉田功一によるものです。
日比谷公会堂と見比べてみると、確かに類似点は多い。↓

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東大の安田講堂(設計:内田祥三)にも、ちょっと似てますねぇ。
ちなみに、日比谷と東大、どちらも安田財閥の寄贈したものです。
                こういう建物が好きだったんでしょうか・・・

脱線したので、戻ります。(^_^;

外壁のスクラッチタイルは、昭和初期の公共建築では、お馴染みの素材。
コンクリートか、もしくはモルタルの壁面を、階層の境などにあしらって、見た目に変化が見られます。

テラコッタのレリーフをはめ込んで、控えめな装飾。


当時の県庁が、こういう建物だったようなので、↓
この公会堂は、盛岡のみならず、東北には衝撃だったのではないですかね?

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(「盛岡案内 1926刊」 国立国会図書館近代デジタルライブラリーより転載)



                       (内丸 2013年10月15日)


岩手・盛岡 /岩手県公会堂・2 内部

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●1F
 正面

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 西口

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 竣工当時の大ホールの椅子か・・・

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●2F

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内部に入ると、竣工当時の姿が、ほぼそのまま残っています。

ドアなどの木の部分は、重厚感のある色ですが、アールデコっぽいデザインが、随所に見られます。
2階の隔壁はアールに設えていて、特別感も漂う・・・

今の部屋名も「○号室」と古めかしいですが、ルームプレートの下に掲げられた白木の札が竣工当時の名称のようです。

部外者としては、やたらと覗くわけにもいきませんが、
HPによれば、窓にはブラインドではなく、カーテンが掛かっている様子。

冷暖房完備の現代とちがって、ドアの上に風を通す小窓があるところが、レトロですね。

通路に置かれた、跳ね上げ式の劇場用の椅子は、昔使われていた物でしょう・・・




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                      (内丸 2013年10月15日)



One Day Trip ~静岡県立美術館へ佐伯祐三展を見に行く~

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4月10日(木) 晴れ 気温26℃超え

我が家の工事も、前日から足場の解体が始まって、ガチャガチャと音がもの凄い。

お天気も良く、気温も上がるということで、
これは、家にくすぶっている場合じゃないと、出かけることに・・・

静岡市にある県立美術館の「佐伯祐三とパリ」展を見に行って来ました。

JR草薙(くさなぎ)駅で下車。
もう、周囲の桜は、八重咲きに替わっている。

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静岡県立美術館は、外観・内装ともに奇をてらったところはなく、
地味で素っ気ない感じもしますが、ほの暗い室内は落ち着いて鑑賞が出来ると思ってます。

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開館時刻早々だったので、まだ、人もチラホラ・・・

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佐伯祐三はとても好きな画家で、
だいぶ前に、上野の美術館へも見に行ったことがあります。
これだけまとまった展覧会は、それ以来かもしれません。

パリで一緒に創作活動をした仲間の作品や、その当時のアールデコのポスターなども展示されていました。

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カッサンドルの「北方急行」などは、ショップでレプリカがあったら買いたかったけど、今回はさすがに無かった・・・

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静岡県立美術館も佐伯作品を所蔵していますが、
今回の展覧会は、ほとんど「大阪新美術館建設準備室」の所蔵作品でした。

会場に座っている係員さんに伺ったら、大阪の美術館は計画だけはあるけれども、
まだ建てているわけでもなく、いつ完成するかも分かっていないそうで・・・

日本一の佐伯コレクションで、完成までは各地を巡回しているとのこと。

大阪は佐伯の故郷なので、多分、美術館が完成したら常設展示されるんでしょうね
そうなったら、大阪に行けばいつでも見られるワケで、夢のようです。

他の物はいいから、美術館だけは造ってぇ~~


静岡県立美術館の所蔵の目玉はロダンなんですが、ここは天井から自然光を取り入れて、とても柔らかい光の中でブロンズ像を鑑賞できます。

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邪魔なライトがないので、良いでしょう~?!

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本館とはまた違う静けさがあって、好きな場所です。
フラッシュをたかなければ、撮影自由というのも嬉しい。

地獄の門

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人間の背中って、いろんなことを語るよね・・・

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ロダンの時代、ヨーロッパで人気があった日本人、花子の像。
腹切りショーで話題になったという女優?だそうです。

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お昼ご飯は、館内のレストランで食べます。

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美術館のレストランは、どこでも空いていて狙い目なんですが、
ここは、安くてそれなりに美味しいので、仕事で、となりの県立図書館で会合があった時にもよく利用してました。

ここ数回の外出では、やっと、ちゃんとした昼食。 名付けて「ロダンセット」

ごぼうのスープが美味しかった。(真似してみよう)

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お魚はサワラです。ハーブも総て戴きました。

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窓際の席にいた人が帰ったので、次の人たちが座るまでの間に撮ってみた。

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コーヒーとデザートで、大満足! でも、アイスクリームでお腹が・・・


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食事も終わって、久しぶりに静岡市街に出てみることにしました。
若い時は、服だのなんだのと、しょっちゅう買い物に来てましたが、
     近頃は全然してません! 地元と通販で充分満足なんで・・・


美術館の周囲は園地や、彫刻の置かれたプロムナードがあって、環境はいいです。

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佐藤忠良の作品。・・・やっぱり気品があるな~


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「2010年宇宙の旅」のモノリスみたいだな~と見ていたら

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誰だ?!こんなとこにミカンを置いたのは・・・

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JRもいいけど、これも久しぶりに静鉄(静岡鉄道)に乗ってみよう・・・

静岡県内では数少ない私鉄のひとつで、静岡ー清水間を走っています。
元々は、輸出用のお茶を清水港に運ぶ目的で敷かれたそうです。

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午後になって、気温はグングンうなぎ上り・・・
歩いて、汗をかくのは今年初めて。いよいよ、そういう季節か~

静岡に着いて、メインストリートなどを歩いてみる。
お店も替わり、知らない名前のお店になっていたりして、戸惑います。

以前よく通った雑貨屋さんなどを覗いて、金額の高さにビックリ

「もう、今の私には手が出ないわ」という感想を持ちました。
というか、価値観が若い時とは違って来たんですね・・・

セルクルという、料理用の輪っかを買ってお終い!


お楽しみミュージアムショップでの買い物は

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富士山の付箋、佐伯祐三の絵のストラップ、
「考える人」は消しゴムです。頭から使っていくと、怖いよね







岩手・盛岡 / 向かい合う2軒のレトロ写真館(佐藤写真館・ライト写真館)

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●佐藤写真館
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昭和3年(1928)建築
設計:藤原孫助
施工:佐々木某
構造:木造2階建

大正2年(1913)創業の写真館。
東京帰りの藤原孫助は、大正末期から昭和初期にかけて市内に洋館建ての小建築を残しており、これもその内のひとつ。
縦長の窓、ドーマーウィンドウ風の装飾など、凝った造りになっている。
北側に天窓を持つスタジオがあり、玄関周りの他は、当初のままだとのこと。


●ライト写真館

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昭和8年(1933)建築
設計:逸見米雄
施工:不詳(町の大工)

大正15年(1926)創業の写真館。
縦長の窓を多数設けており、その窓枠の幾何学模様が洒落ています。
瓦屋根はトタン屋根に葺き替えられたそうです。
漆喰壁のレリーフは何を表しているのでしょう。


こんな間近に写真館が並んでいるというのも驚きますが、だからこそ盛岡が繁栄していた事を物語るモノかもしれません。

周囲のホテルやコンビニが無かったら、これぞ盛岡モダニズム!

なお、どちらの写真館も、現在も営業されているそうです。


                    (中央通り1丁目 2013年10月15日)


こごみのおひたし

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陽光いっぱいというシーズンになってきましたね。
工事用シートも総て外れ、ベランダにも日の光が注いで、気持ちがいいです!

只今、ベランダの再構築中・・・ これが、なかなか難しい。

園芸をやると、どうしても道具や材料が多くなりますよね。
今まであったものを別の場所に置こうとすると、そちらが満杯になる
取り出し難くなると、土、肥料などなど、また買って来てしまう・・・

合理的に配置しないと、ゴタゴタするだけなので、
          スタートに戻って思い切りよく廃棄することも考え中


工事前に植物を処分して寂しくなった中で、
              とにかく真っ先に植えたのはネギです。

薬味用には数本でOKなんで、使う時は必要に応じて使えます。
ネギはいつも売ってるし、パックもありますが 保存で傷んでしまう
             正直、フレッシュなネギが無いのは不便でした。


きょうも、片付け・・・そしてその先は、春の大掃除へ 



春の山菜 こごみのおひたしはいかが? シンプルにおかか醤油和えで・・・


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こごみは成長するとクサソテツというそうですが、
山里では、そんじょそこらで採れますね。ただし、これは買って来ました。

アクが少ないので、普通に茹でるだけで、食べられます。
茎と先端の葉っぱのある部分を分けて時間差で茹でるといいですよ。

これも、わずかにぬめり感があって、美味しいです。


岩手・盛岡 / 「啄木新婚の家」

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花婿のいない結婚式を挙げたという8畳間(啄木の家族が住んだ部屋)

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啄木夫婦が居住した部屋

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啄木が妻節子と新婚生活を送った最初の家。
ここから、渋民・函館・東京など、一家で流転の日々が始まるんですね・・・

帷子小路と呼ばれたこの地で、明治38年(1905)6月に住み始めたが、両親と妹との共同生活や貧しい生活に追われ、わずか3週間で盛岡市加賀野磧町に転居してしまう。

この建物は、藩政時代の中級武士が住んだ武家屋敷で、かつては茅葺きだった。

新婚の家というと甘いものと思われますが、両親、妹と一緒。
おまけに、丸ごと一軒借りたわけではなく、間取り図のオレンジ色の3部屋を間借りしている生活だったようだ。

最初は、大きな家だったじゃないか?!と思いましたが、14畳半に5人って、相当厳しいですよね。

中級の武家屋敷は、その後の庶民の住居の手本となったそうですが、
こういう家って、確かにありましたよね。 小泉八雲が好きそうな・・・(^^)

現在は一般に無料開放され、節子が愛用した琴、啄木の直筆の書や当時の写真が展示されています。

建物の前の柳は、銀座の並木だった柳を挿し木して育成し、「銀座の柳二世」としてよみがえらせたものだそうです。
啄木が東京銀座の朝日新聞に校正係として働いていた縁から、中央区より盛岡市に寄贈されたとか。


◎平山小路(ひらやまこうじ)・帷子小路(かたびらこうじ)・新山小路(しんざんこうじ)

江戸初期には、北上川の遊水池である大沼に面した湿潤の土地であったが、上田堤と北上川切り替えの工事によって水源が絶たれ、耕地に変った。

新山小路は、寛永3年(1626)に、2代藩主南部利直が建立した新山堂と称する岩鷲山(がんじゅさん)大権現の遥拝所があったことに由来する。
岩手山麓にある本山の岩手山神社に対して、新しく神霊を勧請して祀った神社という意味で新山堂といった。

平山小路は、元禄年間に平山伝右衛門が町割をしたことから、その名が付けられた。

また、帷子小路も貞享年中に帷子多左衛門が町割をしたことに由来する。

この三小路に住んだ侍は、ほとんど50石内外の中下級の武士であった。

明治38年(1905)6月4日から24日までの20日間、石川啄木が妻節子と居住した啄木新婚の家も、こうした武家屋敷の1つであり、現在も見ることができる。(盛岡市)

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     ふるさとの訛りなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく



                    (中央通3丁目 2013年10月15日)



※これで、10月の旅についての記事は、やっと終了です。
             長い間ご覧頂き、ありがとうございました。



澤田屋の「くろ玉」(山梨)

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建物記事も一段落して、私的に建築ロスになってます。
記事を書いているときは、旅の思い出も甦ってきますから、寂しいわ~~

常日頃は、淡々として、特に変化のある毎日じゃないので、
 なんとか次の旅までは、細々とブログを繋いでおこうと思います。


先日、身延町でお土産に買ったお菓子の中で、
       私としては、初めて買ったものが美味しかったので、ご紹介。

「くろ玉」といいます。 エンドウ豆の餡と黒糖の羊羹の皮が美味しい~
新しいお菓子かと思っていたら、歴史はあるそうで、お見それしました


お試しに一番小さい箱で買ってきましたが、
        甘いので、これ1コ(直径3cm)で、お茶が2杯はいけます


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製造元のHPによれば、

「くろ玉」は昭和4年に発売され、
75年間愛される「澤田屋」が自信をもっておすすめする伝統の逸品です。

 名前の通り黒い玉状で、外は真っ黒。
中を割ってみると黄緑色の餡の、見た目にもちょっとめずらしいお菓子です。

 中の餡は、青えんどう豆を用いたうぐいす餡ですが、餡とは別に煮た北海道産えんどう豆を一緒にまぜており、風味がいっそう増しています。

 真っ黒な外側は、黒砂糖を羊羹に仕立て、うっすらと包んでいます。

 コクのある黒砂糖の甘さと、うぐいす餡の優しい甘さが互いに引き立て合う、素朴な、懐かしさを感じるお菓子です。

「くろ玉」の考案者の2代目はすでに亡くなり、発想など正確に伝わっていないのは残念ですが、お客様の方から甲府の土地柄もあって「お葡萄をイメージして作られたのですか?」などと言ってくださいます。

製法は餡を丸くするのに機械を使う以外は、発売当初とまったく変わらず、ひとつひとつ手作りの技が生み出す昔ながらのお菓子です。


山梨に行った時に、買いたいモノがまたひとつ増えてしまいました。



神奈川・横浜 / 三渓園の古建築・5 蓮華院

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去年行った横浜の「三渓園」で、まだ記事にしてない物があったので、
再びご紹介していきます。国の重要文化財に指定されている建物もあります。



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三渓園の建物は古建築を移設させただけではなく、三渓が自ら建てた物もあります。
造園も、三渓の構想に基づいているそうですが、時には自ら石を選んだり、配置もやったそうです。

園内には、茶室が多く点在し、一部貸し出ししているので、お茶会がよく開催されているようです。

蓮華院(れんげいん)は、大正6年(1917)に原三渓が建てた6畳と2畳中板の茶室がある建物。(「中板」とは、点前座の客座側につけた点前板のこと)
純粋な茶室というよりは、茶室付きの離れといった感じですかね~。

土間と壁には、平等院鳳凰堂に使われていた太い円柱と格子が用いられているとのこと。

普段は立ち入り禁止です。もう少し、近くに寄らせて頂けると嬉しいんですが・・・

蓮華院<貸出施設>
大正6年(1917)建築
もとは、現在の「春草廬」の位置にありましたが、 第二次世界大戦後に竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。
二畳中板(にじょうなかいた)の小間と六畳の広間、土間からなっています。

●ひとこと&みどころ
 土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。 
蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた「蓮華」を飾ったことに由来しています。

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                           ーー三渓園HPより転載ーー


◎三渓園おさらい

 三溪園は生糸貿易により財を成した実業家・原 三溪(本名富太郎=慶応4年(1868)~昭和14年(1939))によって、明治39年(1906)5月1日に公開されました。

175,000平方mに及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)

 東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により明治35年(1902)頃から造成が始められ、大正3年(1914)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至りました。

 三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「神輿振」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。

 その後、戦災により大きな被害をうけ、昭和28年(1953)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人「三溪園保勝会」が設立され、復旧工事を実施し現在に至ります。(三渓園HPより)


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                  (中区本牧三之谷 2013年5月27日)


噂のキャタピランを買ってみた

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「キャタピラン」は、ナイロンとゴムでできた靴ひもです。
キャタピラーとランの合成商品名でしょうかね・・・
ご覧のように、コブコブのある特異な形状


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結ばない靴ひもということで、興味を持ったのですが、
コブが伸縮して、しっかり止まるので結ぶ必要がないということらしい。

私のように、出かけると一日中歩く者にとっては、足回りはとっても重要。
いろいろ足を痛めた経験を経て、ハイカットで、軽めのトレッキングシューズに行き着きました。
町歩きはもちろん、山や海辺、いろんな場所に対応出来ます。

旅も1週間を過ぎると、足が相当疲れますので、
    足首を靴紐やサポーターでキュッと固定しないと歩きにくくなります。

建物の内部見学では、靴を脱がなければならないので、これが面倒くさい・・・

野外建物博物館では、その度脱ぐのはおっくうなので、敬遠する所も出てきます。

なので、結ばず脱ぎ履きが簡単というのは朗報でした。
     確かに脱ぎ履きは紐が伸びるし、コブで止まるので簡単です。

ただ、靴ひもを通す形状によっては、コブが通しにくいので、充分引っ張りつつ通さないといけないです。
長さは50cmと75cmとあって、これは50cmです。


また、きつい靴では、足の指を痛めるため(親指の爪が2回剥がれました)
いろいろ手当をしているので、どうしても、ひとまわり大きいサイズになります。

そうそう、バレエ用品に足指を保護するグッズがあって、これも便利です。
優美なトウシューズの中は凄いことになってるんだなぁと、別なことで衝撃でしたが・・・

そうなると、自然と甲や幅が広くなるので、横にゆとりが出来すぎます。
それも、少しは改善できるかな~?と期待・・・

結果は、ちょっとばかり歩いても出ないので、実際にやってみなくては分からないですけどね。


足元のことを語り始めるときりがないですが、きっと永遠の悩みですね~~


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以前の靴ひもも、ウェーブ状になっていて「ナンダコレ?!」って思いましたが

でも、色が全然違っていたね。ちゃんと確認しないのがボクの悪いクセ・・・
チョッと雰囲気違っちゃったなぁ

それよりも、靴のほうが、だいぶクタビレてきたのでそろそろ買い換えかも~



神奈川・横浜 / 三渓園の古建築・6 月華殿

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国指定重要文化財(1931.12.14)

名称:月華殿(げっかでん)
桃山時代(1573-1614)建築
構造:竹の間、檜扇の間及び三面の縁より成る、
   一重、入母屋造、檜皮葺、庇こけら葺
所有者:公益財団法人三溪園保勝会

月華殿(重要文化財) 慶長8年(1603)建築 <貸出施設>

徳川家康により、京都伏見城内に建てられたものといわれています。 
大正7年(1918)に「春草廬」と共に移築されました。
三溪が建てた「金毛窟(茶室)」とつながっています。

◎ひとこと&みどころ
障壁画は、桃山時代の画家・海北友松(かいほうゆうしょう)によるものと伝えられます。

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                       ーー三渓園HPより転載ーー


徳川家康が慶長8年(1603)に建てた、京都伏見城の諸大名控えの間であったと伝えられる。
元和元年(1610)の伏見城取り壊しに際して、宇治の茶商・上林(かんばやし)家に下賜され、後に「三室戸寺金藏院」に渡って、客殿として使用されていたものを、付属していた茶室・九窓亭(現・春草廬)と共に大正7年(1918)に移築された。

伏見城にあった根拠ははっきりしないが、屋根の部材には古い物が多く残り、海北友松によると伝えられる障壁画や、古拙な欄間は、その時代の風格を残している。

月華殿を三渓園に移築するにあたり、解体材は白の新しい晒し木綿で役に立ちそうもない古い柱まで、1本づつ丁寧に巻いて運ばれたと、奈良の職人が記憶している。
           (「三渓園100周年原三渓の描いた風景」より引用)


宇治の茶商・上林三入が伏見桃山城の遺構を下賜され、それを三室戸寺に寄付したもので、客殿と伝えています。

徳川家康の時代から現代に伝わる建物が、横浜にある事だけで感動モノですね。

ちなみに三室戸寺(みむろとじ)とは、京都府宇治市菟道滋賀谷にある、本山修験宗の別格本山。
あじさい寺として有名。
宝亀年中(770~781)光仁天皇から千手観音を御室に賜ったので、御室戸寺といい、行表の開基といわれる。
鎌倉時代以後は衰退し、寺地も移転、文明年間(1469~84)に現在地に移った。


この建物は、簡素な書院造で、主室という「檜扇の間」にも一間の床の間がつくだけで、違い棚も書院もないとか。
外観的には、欄干の腰欄間が優美だなとおもいました。

障子を開け放って、真ん中でドーンと寝転がって、昼寝したら気持ちがいいだろうな



                   (中区本牧三之谷 2013年5月27日)


神奈川・横浜 / 三渓園の古建築・7 金毛窟

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金毛窟(きんもうくつ) 
大正7年(1918)建築 <貸出施設>
三溪が建てた一畳台目(いちじょうだいめ)の極小の茶室です。

◎ひとこと&みどころ
 「金毛窟」という名は、床柱に京都大徳寺の山門 金毛閣の高欄の架木を使用していることにちなみます。

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                       ーー三渓園HPより転載ーー

三渓の好みによって建築されたもので、客用の畳1枚と主人用の台目畳(通常の1/3程度の大きさ)1枚に床の間を設けた、極めて小さな茶室。

床柱に京都大徳寺の山門「金毛閣」の高欄手摺の古材を用いているので、この名がある。
現在、屋根は銅板葺となっているが、当初は杉皮葺だった。

内苑山上の最奥、仏堂近く、三渓の深い精神性を示す場所に建てられている。

三渓は茶会で、接続している「月華殿」で懐石を行い、「金毛窟」で茶を出した。

名席を手本とした茶室では無く、素人造りらしい素朴さと気取らない趣があり、
それは、三渓が建てた「白雲邸」や「蓮華院」にも共通する趣向である。
             (「三溪園100周年原三溪の描いた風景」より引用)


「月華殿」に付属する、極狭な茶室です。
やっぱり「待庵」のイメージもあったんでしょうかね・・・
この大きさだと、懐石が終わったら、ひとりづつ茶室に行くっていう感じ?

それにしても、どのもてなし空間にも茶室がありますから、三渓の趣味人ぶりがよくわかりますね。


                   (中区本牧三之谷 2013年5月27日)


「東京の坂と文学」新刊本をいただきました。

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先日、新刊書をいただきました。
東京の坂について書かれているもので、著者のお一人である瀧山幸伸氏からです。

瀧山さんは、東大出身で一流企業に勤務されているという、田舎ではまず見かけることの少ないエリートなのです。
人文地理の研究・調査のため、日本全国を巡り歩き、公演もされています。

そんな方と、ナゼ私が知り合いなのかと言うと・・・

まだブログを始める前、旅の情報を探すため、瀧山さんの主宰するHPを拝見していて、PCメールで質問を差し上げたのがきっかけです。

メールで交流しているうち、HPに写真を投稿するようになりました。

実際お会いしたことはなく、ネット上でのお知り合いなんですが・・・
ブログも含め、ネットの世界では、普通の生活ではあり得ない出会いがある、
知己を得るというチャンスがあるのが、良いところですね。

しばらくブログと平行して投稿もしていましたが、諸事情からHPへの投稿はお休みさせていただいて、そのままになっています。

本を出版される度に送って下さるので、恐縮しながら喜んで戴いています。


肝心の本のPRをしなきゃ・・・

『東京の「坂」と文学 ~文士が描いた「坂」探訪』彩流社刊

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彩流社という出版社は、よく知らなかったんですが、主に東京に関する本を出版しているようです。


「坂学会」という同好会?の方々と一緒に上梓されたもので、坂学会はHPもあります。
いやはや、お忙しい方です。

『江戸名所図絵』などの古文書や、漱石・一葉ほかの明治の文豪から、宮部みゆきなど現代の歴史小説家まで、著作に現れた300坂についてまとめられています。



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東京に住んでいる方なら、細かい部分まで分かって、感心される事も多いかと、
でも、坂の周辺の建物や、古い時代のこと、
        また、坂の名前の由来などにも触れられているので、面白い。

本を片手に坂を巡ってみるのも、
       江戸の古地図の本と見比べて読んでみても面白いでしょう。


ふと、TVで東京の坂を駆け上がるだけのミニ番組があったのを思い出しました。
いや、アレと比べちゃいけませんが、観ながら読むってのもいけるかな??






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