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盛岡の町と、商家について記事を書こうと思って、調べていくうちに、
近江(滋賀県)から渡ってきた商人が、重要な役割を果たして来たことが分かりました。
北前船に関しても、近江商人が各地で活躍していることは以前記事に書いたとおりですが、
盛岡市内にも来ていたとは初耳でしたので、面白く読ませて戴きました。
後で紹介する店なども出て来ますので、前もっておさらいしておきます。
この件に関しては、個人のHPにもたくさん書かれていますが、
ここでは、岩手県の公式HPと高島市の広報記事を参考にしました。
☆盛岡の誕生
戦国時代に南部氏が支配していた津軽地方は、大浦(津軽)為信(おおうらためのぶ)のいち早い小田原参陣によって秀吉に公認され、南部氏の領地ではなくなりました。
このことによって、居城・三戸(さんのへ・青森県三戸町)は領内の北に片寄ってしまい、治府として地理的に不適当な位置になります。
そこで南部信直(のぶなお)は九戸政実(くのへまさざね)の乱後、その居城だった「九戸城(二戸市)」を「福岡城」と改名し移り住みます。
さらに、蒲生氏郷や浅野長政の勧めもあり、居城を岩手郡仁王(におう)郷不来方(こずかた)に南進させることを決定します。新都市「盛岡」の誕生です。
盛岡が選ばれた理由は、
(1)北上川の水運が利用できる交通の要衝であったこと。
(2)北方の渋民(しぶたみ・盛岡市)や沼宮内(ぬまくない・岩手町)などを経由して九戸城に達する街道沿いであったこと。
(3)北上川と中津川に囲まれた、花崗岩台地からなる天然の要害であったこと。
などが挙げられます。
文禄元年(1592)秀吉から内々の許可を受けた信直は整地作業を開始。
築城開始には諸説あるものの、慶長3年(1598)説が妥当と思われます。
築城の実際の指揮は信直の嫡子・利直(としなお)があたり、慶長3年の秀吉、翌慶長4年(1599)の信直の死などによってしばしば中断しましたが、慶長年間(1596~1615)中頃には一応の完成をみたようです。
しかしその後もしばしば洪水の被害を受けるなどし、正式に居城として定められたのは寛永10年(1633)三代藩主・重直(しげなお)が帰国入城した時です。
実に36年の歳月を要したことになります。
築城と前後して、街づくりも始まりました。
城下の町割りは「五ノ字」型の街路とする政策がとられました。
城を中心とした第一圏に五百石以上の上級武士、第二圏には商人や職人、第三圏には五百石未満の一般武士を、城下から村々に至る街道沿いには足軽(同心)が置かれました。
上田組町や仙北組町がこれにあたります。
さらに防衛上の見地から、城下北東の山麓に神社仏閣の移転と建立が行われました。
侍町は最初、下小路(したこうじ・愛宕町付近)や上衆小路(かみしゅうこうじ・馬場町付近)が作られ、その後、北上川の改修工事を経て大沢川原(おおさわかわら・大沢川原三丁目付近)、帷子小路(かたびらこうじ)、平山小路(ひらやまこうじ・いずれも中央通三丁目付近)などが誕生しました。
町人街はそれぞれ商人の出身地名を町名として生まれます。
三戸からやってきた町人の「三戸町(さんのへちょう・本町三丁目付近)」が始まりで、秋田県仙北郡から来た町人の「仙北町(仙北一丁目付近)」などが作られ、慶安4年(1651)には「盛岡二十三町」が成立しました。
今まで見てきた各町と、これから紹介する町に関してピックアップしてみると・・・
◎川原町(かわらちょう)・穀町(こくちょう)→南大通二丁目
穀町は、のちにできた新穀町とともに、惣門(そうもん)を中心にした町。
文化9年(1812)二つの町に分かれた。
両町と川原町には豪商が多く、糸治、木津屋、泉屋をはじめ、いろいろな商家がならび盛岡城下では、最も繁盛した地域だった。
穀町は、古くは「三日町(みっかまち)」といわれたが、師走の9、19、29日の3日間、新山河岸の御蔵の米を払い下げたため、「穀町」という名になった。
惣門には、枡形と御番所、役人屋敷24戸があって、城下への物と人の出入りを取り調べた。
門は朝6時に開け、夕6時に閉じた。
また、穀町には旅館が多く、諸国や藩内の商人、旅人、北辺警備の東北諸藩の派遣隊が宿泊した。
◎鉈屋町(なたやちょう)→鉈屋町
むかし京都から豪商鉈屋長清が盛岡にやってきて、釶屋山菩提院(やおくざんぼだいいん)という寺を建てたのが町名の起りである。
昔の鉈屋町には、水主町(かこちょう)、十文字、下町(したちょう)、お鷹道などがあった。
水主(かこ)というのは、北上川の水運の舟や、舟橋の仕事をしていた。また、殿様の飼っている鶴に食べさせる小魚をとる役目もしていた。
鉈屋町は、宮古方面、釜石方面、金山の大萱生(おおがゆう)などからくる人の、はじめて盛岡に入る一本道だったので、ここでいろいろな買物ができることから、多くの大小の商売屋があった。
大慈清水や青龍水は有名だが、この湧水は冬は湯気が立つほど温かいので、神子田(みこだ)、仙北町(せんぼくちょう)方面から野菜を持って来て洗い、馬町の青物市場に出す人が多かった。
◎新町(のちに呉服町・ごふくまち)・六日町(むいかちょう)→中ノ橋通一丁目
もと新町と言い、呉服町と改称されたのは文化9年(1812)で、中町とも呼ばれていた。
「盛岡砂子(すなこ)」に「呉服町は”札の辻”南二丁」とあるが、『札の辻』とは、旧岩手銀行中ノ橋支店あたりで、毎月26日が新町の市日であった。
慶応4年(1868)の「南部家御用金被仰付人員(なんぶけごようきんおうせつけらるじんいん)」番付によれば、
西方大関、小野組最大の支店であった井筒屋善八郎を筆頭に、渋谷善兵衛(味噌醤油、呉服)、近江屋治郎兵衛(呉服)、井筒屋徳十郎(酒屋)、近江屋市左衛門(酒屋)、近江屋善六(質屋)、近江屋覚兵衛(呉服)等の豪商老舗が店を張っていた。
六日町は呉服町と上衆小路の間にあって二丁余。
市日は毎月6、16日で、ここには木津屋権治(醤油)、油屋孫六(油屋)等の店があった。
盛岡中央郵便局の前身・盛岡郵便役所が明治5年(1872)5月に開設されたのはこの六日町であった。
◎紺屋町(こんやちょう)・鍛冶町(かじちょう)・紙町(かみちょう)→紺屋町
慶長年間、盛岡城下には上・中・下の中津川三橋が架けられ、上の橋と中の橋との間には、中津川東岸に沿って上流の方から紙町、鍛冶町、紺屋町という一続きの大きな町並みがつくられた。
この町並みには、幕末ごろには紺屋町の鍵屋茂兵衛、沢井屋九兵衛(茣座九(ござく))、井筒屋伝兵衛、また鍛冶町の向井屋半兵衛、鍵屋定八、あるいは紙町の井筒屋弥兵衛、大塚屋宗兵衛などという屈指の豪商老舗が軒をつらねて、盛岡城下における主要な商店街となっていた。
いまも紺屋町の茣座九の店構えには、昔の盛岡の古い面影がある。
また、ここの道路は、藩政時代の奥州道中(街道)の要路にあたっていた。当時の奥州道中は、穀町の惣門を入ってここを通り、上の橋を通って本町から上田方面に向かっていた。
そこで鍛冶町の中程には道標があり、それを起点として藩内四方への里程を測ったものだった。
◎本町(ほんちょう)・油町(あぶらちょう)・大工町(だいくちょう)・寺町(てらまち)→本町通一丁目
本町は盛岡城の大手先を東西に走る奥州道中の一部になっていて、京都方面から下ってきた商人が多く住んでいたので、はじめは「京町(きょうまち)」と呼んだが、文化年間(1804~18)になって本町と改められた。
幕末のころには日野屋市兵衛、大和屋茂右衛門、高田屋伊助、岩井屋権助、鍵屋伊兵衛などの店鋪がつらなり、河北地区の主要な商店街となっていた。
また、本町につづく西の町並みは八日町といい、本町の北裏には油町や大工町があった。
油町には、油屋や荒物屋や牛馬宿があり、大工町は、むかし多くの大工職が住み、大工小頭がいたところだった。
そして本町から北山の寺院地区に通ずる道筋は、古くは寺町と呼んだが、そののち文化年間になってから、花屋町(はなやちょう)と改められた。
ー以上、HP「いわての情報文化大事典・歴史に触れ、故郷を知る」より一部転載ー
☆南部藩に雄飛した高島商人
近江商人というと、八幡や日野、五個荘など湖東の商人を連想しますが、高島から遠く岩手・盛岡にまで出かけて定住した高島商人を見落としてはなりません。
高島地域での商人の発生は中世に遡り、安曇川町南市には五番領城下「立市」で開かれていた市で商いをしていた南市商人がいました。
南市商人は、小幡商人らと共に五個荘商人団に含まれ、若狭から九里半街道を通り、塩魚などを運搬していました。
天正元年(1573)高島郡が織田信長によって平定されたことにより、総ての城館が取り壊され、同時に南市庭(みなみいちば)も終焉を迎えます。
その後、南市商人は磯野員昌(いそのかずまさ)により新庄城下(新旭町)へ強制移住させられますが、天正6年(1578)新庄城主となる信長の甥、織田信澄(おだのぶすみ)は大溝に水城を築き、南北に城下町を造り、再び南市商人は大溝へ移住します。
資料には、その後の南市商人の経歴は明らかではありませんが、前後して村井新七は南部藩に向けて旅立っています。
盛岡は「みちのくの小京都」と呼ばれます。
南部利直によって40年の歳月をかけて京都に倣ったまちづくりを進めました。
主な街道の入り口には惣門や枡形を設けて人や物資の出入りを取り締まり、後にはその先に同心丁を置いて、同心に警備をさせました。
さながら、盛岡城は全体が「防備都市」だったと伝えられています。
南部氏は、城内に通ずる大手門の正面玄関の真ん前に商人町をつくりました。
南部氏が商人を優遇し、特に近江商人たちに「京町」と名付け一等地を与える英断を図りました。
さて、このような「受け皿づくり」が進む中、高島商人のパイオニア村井新七は慶長15年(1610)遠野の横田に入ります。
そして、その際同行していた2人の弟はそれぞれ遠野と釜石に定住しますが、新七は3年後に盛岡城下に移りました。
新七の先祖は岸和田城主浅井氏の九男で高島郡村井庄を領していましたが病のため武士を廃し帰農し郷士となっていました。
しかし浅井氏の滅亡後は大溝を離れ京都に隠れ、商人となります。
大阪の陣があり徳川方として参戦していた南部氏との関係が深まり、新七を盛岡に呼び寄せたのです。
ーー中略ーー
村井新七は町割りができた京町(上ノ橋西詰)に土地を与えられ、郷里高島からやってくる人たちの『草鞋脱ぎ場』となりました。
『草鞋脱ぎ場』は同郷の高島商人たちの宿を提供して商売をさせるだけではなく、現代の系列化やチェーン化のための足だまりであったとされています。
丁稚として雇用し商人教育を施し、後には暖簾と資本を与え独立させ周辺地域に系列店を広げさせました。
この系列店を「内和」と呼び、協同組合的な性格を持ち、経営難になった場合は無利子で融通しあうと共に、奉公人や子弟の共同管理も行っていました。
さらに、競業を禁じ、暖簾分けし出店時には同業を許しませんでした。
盛岡における大溝系近江商人の三始祖といわれるのが、村井新七、小野権兵衛、村井市左衛門です。
小野権兵衛は寛文2年(1662)新七の誘いを受け盛岡に下り、養子となり村井権兵衛を名乗りました。
元々商家の次男であり、商いの他酒造技術なども身につけ、当時盛岡では知られていない「すみ酒」の製法に通じ、後に志和に独立し「村井近江屋」を開きました。
村井市左衛門は新七の同族で、盛岡では酒造業や質屋を営んでいます。
明治には、第九十銀行創業の一人となる近江屋勘兵衛ら有力商人を輩出しています。
ー以上、広報たかしま100号(平成21年10月)特集「近江商人来盛四百年」より抜粋ー
以上、近江商人を送り出した側、迎え入れた側の記事を紹介しました。
どちらにしても、商人の活躍無しに城下が繁栄しなかったということが、
政権の商人の取り扱い方に現れているように思いました。
それにしても、盛岡にまで進出していたとは、近江商人恐るべし・・・
この先、またどこかで顔を出すかもしれませんねぇ
行ったことが無い方には、ちんぷんかんぷんだったかもしれませんが、
私には、五個荘の町並みや商人屋敷、鯖街道、盛岡の町並み、さらには北前船まで・・
その光景が頭を巡って、またひとつ歴史の抽出しを開いたような心持ちです。
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