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岩手・盛岡 / 大慈寺町・鉈屋町界隈 4 盛岡町家

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◎外観の特徴
盛岡の町家は、柱立ての下屋付で、道路と並行に屋根の棟を持つ平入りがほとんどです。この下屋は、青森県、秋田県境北部にみられる「こみせ」(木造アーケード)が変化し、それぞれの家事用の内土間に変わったものです。
藩政時代の古絵図に描かれた仙北町の街並みは明らかに「こみせ」を示しています。
 
馬町に馬検場があった明治時代に、道一杯に並ぶ馬を避けて下屋下を歩いた話も残っています。
 
ちなみに新潟地方では「雁木」と呼ばれています。
また、盛岡町家の特徴を持つ町家は、県内各地の宿場町等にも見られます。
 
一方、県南の旧伊達領の町家は違った特徴を持ちます。
このことは、「南部町家」と呼ぶ方が正しいかもしれません。
 
店じまいの戸締りは、内側の蔀戸(しとみと)、大戸(潜戸付きの戸)で仕切られます。
下屋は住居専用になっても外部的に残ってきました。
その後、明治後半にガラスが入り、道路側にガラス戸が建ち、下屋は殆んど内部下され、現在の姿になりました。
 
また、町家は隣家と空地が殆んどありませんが、それぞれ戸建て独立して建築されています。
明治以降の近代化、身分の自由化を背景にだんだん背が高くなり、贅をつくす町家もつくられます。
江戸時代に近い古いタイプは背が低く、表2階のみという特徴があります。
屋根の重なり具合で、高いほうが新しい建築と見て良いようです。
 
関西の町家と比較してみると、下屋は柱を持たず、母屋から突き出す形式で、母屋の総2階が強調されます。
盛岡町家は下屋が通りに面し、母屋が引く形になります。

●旧大澤家(大慈清水御休み処)
 屋号は「八百勘」という八百屋だった。

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◎内部の特徴
町家のかまえは、表通りから母屋、坪庭、土蔵と並びます。
そして、表から裏まで通り土間が通り、土足で奥まで行けます。
盛岡では、昔は「ロジ」と言いました。
子供たちの遊び場になり、荷を奥の土蔵に入れるためや汚物の汲み取りの通路利用されてきました。
この配置は、近世以降の全国の町家でもほぼ同じです。
 
盛岡町家の特徴は、母屋の「見世(ミセ)」に続く中の間、「常居(ジョイ)」にあります。
この部屋は主人お仕事場で、家の中心として神座も兼ね、立派な神棚があり、基本的に二階をのせません。
天井もない吹き抜けにして、屋根を支える木組みを見せる空間にします。
地元では「主人を足げにしない」「出世を妨げない」ためといわれています。

常居に続いて食堂にあたる「台所(ダイドコ)」、または「座敷」となり、この前か奥の通り土間に水場、かまどを設けます。
 
ところが、中の間と台所の意味と位置は、京町家に代表される関西系町家と大きな違いがあります。

京町家は、中の間が台所にあたり、みせで働く人、外からの人と家の人が食事をしたり玄関先のような使われ方をしています。
二階ものって、吹き抜けにはしていません。
吹抜けは、この台所前の通り庭に竈があり、その煙り出しのためにあります。「火ぶくろ」と言っています。
 
二つ目の特徴で、常居は、表(店)と裏(家)に空間を二分し、表の2階は古くかは店の雇い人の部屋、臨時の宿、倉庫等に利用され、昭和に入ると客用座敷に改造される町家が多くなります。
明治以降町家に見られる奥二階を持つ場合は、女衆の部屋等に利用されてきたようです。つまり、常居は、家を私的、公的空間に分ける役割を持っています。
 
三つ目は、神棚は南向き、東向きを基本とし、通り土間はこれに反対する位置に作られます。
これは、街区のなかで、各町家の通り土間と居室が交互に並び、木造の薄い壁で接する家境でもプライバシーが保てるよう、間取りによって都市に住まうルールがつくられています。

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街道に沿って、惣門跡までの鉈屋町のメインストリートには、町家が再生されています。
まだ、それほど多くはないですが、だんだんと修景されていくことでしょう。

でも、昭和な建物と古い町家とが混ざっている風景は、どこか懐かしい・・・
これはこれでマッチしてて、いいんじゃないの?と私的には思います。

「町家」は、全国的にも間口が狭くて奥に長く、家の裏まで土間を通しているのが一般的な特徴ですが、盛岡町家はさらに「常居」があるのが特徴だという事です。

常居は、その家の主人の部屋兼「神座」で、天井付近に神棚が備えられているのが大きな特徴。
そして神棚があるため、上に2階を置かず、吹き抜けのような空間になっています。これが盛岡町家の見どころだというわけです。

確かに、京都の町家等では、座敷部分に吹き抜けって見ないですね。
盛岡では、家の中に吹き抜けを造るのは、冬にはさぞ寒いことでしょうが・・・

盛岡町家の多くは、明治から昭和にかけて改修されたり取り壊されてしまったそうです。
そんな中で鉈屋町では平成15年に住民を含めた市民有志の保存・再生・活用する活動が始まり、風情ある町並みが守られているそうです。

鉈屋町の町家では、イベントが開催されたりギャラリーとして活用されています。
また、町家の宿泊体験もできるそうです。


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地図中、番号があるのが、町家を含む古い建物です。

*解説はHP「盛岡まちなみ塾」より転載


                      (鉈屋町 2013年10月14日)



岩手・盛岡 / 木津屋 池野籐兵衛家住宅

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岩手県指定有形文化財(1983. 4.26)

名称:木津屋池野籐兵衛家住宅(きづや いけのとうべえけじゅうたく)
天保5年(1834)建築
構造:木造2階建、屋根切妻造、鉄板瓦棒葺。土蔵造り漆喰仕上げ
規模:間口9.5m、奥行19.95m

附 土蔵1棟
 構造:2階建、切妻造、桟瓦葺
 規模:間口6.7m、奥行7.65m
所有者・管理者名:池野株式会社

この建物は,棟札より天保5年(1834)に建築されたことがわかっており,松材を主に用いた土蔵造りの商家店舗兼住宅です。

この付近は惣門(そうもん)といわれ、江戸時代は城下町の南の玄関口として、奥州道中(おうしゅうどうちゅう=街道)沿いに盛岡の代表的な商人が店を構え、蔵が建ち並び、活気のある様相を呈していました。

この建物は、その当時の商家の面影を残す数少ない町家の一つであり、現在も会社の事務所として使用されています。

建物は、二方向が道路に接しており、南側道路に店舗が、西側道路には住居の出入口が面し、それから入ると通り土間があり、床上2列の部屋形式の町屋となっています。

店舗には独立した土間(客溜り)があり、店側と住居側と区別があるのが特徴です。
西側の通り土間と1列の部屋は吹抜けとなり、天井高く小屋顕しで、2列目の部屋は2階建であるので、2階の部屋より吹抜けの通り土間が見えるように空間構成されています。

木造2階建で、屋根は鉄板瓦棒葺き(瓦棒は三角形)、下家その他は桟瓦葺、外壁は木造軸組の外部仕上を上塀式に塗り上げられ、軒天井の垂木、野地板等の木部は全て漆喰押えで防火造りとなっています。

店舗2階の道路側窓の木格子は、1メートル単位ぐらいに内部から取り外して非常時に避難できるようにしたり、また店舗と客溜りの境界には上げ下げの板戸が鴨居上におさめられるようになっていて、閉店になると板戸をおろして,客があれば小窓をあけて応接できるようになっています。

2階への階段には、2階床面で板戸を水平にスライドさせ昇降できないようにしたり、地下室への出入り口には蓋をすれば砂が落ちるように工夫してあったり、防盗・防火・避難に注意が払われているのが随所に見られます。

各所に町家建築の古式の手法が残り、江戸時代における、完成された盛岡の町家建築の姿を伝えるものとして貴重。

また、主屋の奥、西側脇道路面の土塀に接して、土蔵を配する。
土蔵は、入念な耐火構造に見るべきものがあり、土蔵建築の典型的遺構であり貴重である。

●盛岡城警備惣門跡

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「盛岡城警備惣門」は、盛岡城南側の玄関であり、ここから奥州街道が延びて江戸へ至る。

奥州街道とは江戸から宇都宮~白河~福島~仙台~平泉~盛岡~青森~津軽半島の三厩~函館へと至る日本最長の街道。
江戸~白河間は幕府道中奉行が管轄し「奥州道中」と呼び、仙台道(白河~仙台間)、松前道(仙台~函館間)は幕府勘定奉行や諸藩が管轄した。


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鉈屋町の通りを少し外れると、また違った様相を見せてきます。
盛岡城の南側の守り「惣門」があったところで、現在は石碑だけが立っています。

ここをさらに進み、中津川を渡れば、盛岡城跡に出ます。

惣門跡の向かい側に木津屋は建っており、現在も事務所として使われているそうです。

構えも大きく、昔から大店だったのだろうと想像できます。
卯建から流れていく防火壁の大きさは、昔の大火の教訓をふまえた備えを物語っているようです。

「株式会社木津屋本店」は寛永15年(1638)創業の老舗。
その歴史も、なかなか面白く、知らなかった日本史の一端が見えました。

現在は、オフィス用品や文具の卸・小売を扱っているとか。

沿革
寛永12年(1635)
 3月、朝鮮国交公文書改ざん事件により、方長老が盛岡に預けられる。
寛永15年(1638)
 池野千代松(始祖藤兵衛)、方長老を訪ねて盛岡に下り、藩主の庇護と師の教えを受けて新町に萬小間物「木津屋」を創業。
(扱品目)筆墨紙・香・薬・金物・茶・雑貨等
万治元(1658)
 4月、方長老赦免されて上京。
 千代松、師と行動を共にし、京都伏見に落ち着く。
 店は水戸にいた一子、梅松(次祖藤兵衛)を呼び寄せて継がせた
享保18年(1733)
 新穀町の現在地に移る。
天保5年(1834)
 7月、石丁(穀丁)で出火、木津屋類焼。
 12月に再建が終わる。現存する建物はこのときのもの。
嘉永3年(1850)
 11月、藩公下賜蔵米三百駄を凶荒に備える。
明治8年(1875)
 度量衡取締条例が太政官布達で発布。木津屋は尺度を製作、販売した。
明治14年(1881)
 盛岡商法会議所を開設。藤兵衛、中心メンバーとして参画。
明治17年(1884)
 河南地区大火、1432戸焼失。
 惣門は木津屋で延焼をくいとめ、東側への被害はなかった。
明治18年(1885)
 藤兵衛らが中心メンバーとなって北上廻漕株式会社設立。
明治22年(1889)
 盛岡市制施行。
明治36年(1903)
 盛岡信用組合発足に藤兵衛参画。
明治37年(1904)
 盛岡電気株式会社創立に参画。翌年11月、市内に190灯点灯。
明治41年(1908)
 盛岡に電話開通。加入者146人、交換手7人。
大正13年(1924)
文具部開設。

以下略

*「国書改ざん事件」とは、
対馬における朝鮮外交において国書が問題となった。
元和3年(1617)朝鮮側は国書の署名を「日本国王」とするよう求めてきたが、将軍秀忠は「日本国源秀忠」と書いた。
このために対馬で国書の改作が行われ、王の字を付け加える工作がされた。

さらに寛永元年(1624)に家光の将軍就任を賀する回答使が来日した際にも、国書の改作が行われる。
このときは「日本国主」となっていた署名の点を削って「日本国王」と偽造された。
この事件を柳川一件と称された。

*「方長老」とは
規伯玄方(きはくげんぼう、天正16年(1588)ー 寛文元年(1661))のことで、臨済宗の僧侶。
対馬藩の対朝鮮外交を担った景轍玄蘇の門人。
師の玄蘇を継いで対馬藩の朝鮮との外交交渉を担当した。
元和7年(1621)と寛永6年(1629)の2回、朝鮮に使者として赴いている。

柳川一件に際して国書改ざんの責任を問われ、寛永12年(1635)盛岡藩に配流される。
盛岡では、学問・文化の指導者として尊敬され、南部鉄器や黄精飴の創出などに関わったとされる。
万治元年(1658)赦免され、南禅寺に移る。



                     (南大通り 2013年10月14日)


岩手・盛岡 / 旧工藤勝四郎家所有煉瓦建造物(現・東北総業事務所)

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明治45年(1912)竣工
設計:不詳
施工:不詳
構造:煉瓦造り2階建

盛岡市の鉈屋町から盛岡城跡へ向かって歩いているときに見かけた煉瓦造りの建物。
1棟ポツンと建っているので、不思議な感じがしました。

見かけだけではなく、本当に古そうなので、とりあえず撮っておく。
いつものように、帰ってから調べてみようという魂胆で・・・


調べていくと、以前は「富士屋印刷所」という、明治から続く印刷所の一部だったということが分かりました。
私の古い蔵書にも、ちゃんと載っていました。

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富士屋印刷所となっている建物群は、3つの部分からなっている。 明治28年(1895)盛岡市最初の印刷所として開業してから、大正12年(1923)現在地に移った際建てたものが、3階の塔屋を持つ木造、タイル貼りの建物である。 (設計:藤原孫助 施工:長沢組) その裏側の部分は明治20年(1889)医学館としてあった木造建物であり、盛岡の西洋医学発祥の地であるといわれる。 向かって右側の煉瓦造り2階建の建物は明治中期の豪商事務所として建てられたものが、銀行として使用された後、昭和5年(1930)に現在の所有者に移ったものである。 *解説文は「近代建築ガイドブック 北海道・東北編(鹿島出版会1985年刊)」より引用 *写真は、ブログ「Clocks&Clouds」さんから借用しました。

つまり、元々は総て同じ場所にあったかは分かりませんが、
3つの建物を合体させて社屋としたということになります。

解説にある『豪商』というのが、建物の名称になっている工藤さんでしょうね。
その方が建てて、後に銀行に転用、そして「富士屋印刷所」になり、現在は「東北総業」の事務所になっているというワケです。

窓に取り付けられた格子や扉に、銀行時代の面影を感じますね。
東北総業は、福島県喜多方市に本社のある土木・建築関係の会社かなと思われますが
詳しくは分かりません。

もう、隣は更地になっているので、他の建物は取り壊されてしまったんですね。
なかなか興味深い建物だったようなので、3件揃っているところが見たかった・・・


で、富士屋印刷所の現在はどうなったかというと、
平成7年、盛岡市の郊外、工業団地に本社移転して営業されているようです。

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                      (下ノ橋町 2013年10月14日)


岩手・盛岡 / 盛岡城跡(現・岩手公園)

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●本丸

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南部利騎乗像台座
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南部家42代南部利(としなが)は、日露戦争に従軍し、第一軍に属して各地に転戦したが、明治38年(1905)3月4日満州井口嶺の激戦において戦死した。 ときに陸軍騎兵中尉24歳であった。 この功によって功五級錦し勲章を下賜された。 市民これを悼み、かつその功績は明治維新の際、朝敵の立場におかれた南部藩の汚名をそそいだものとして、五千数百名の賛同者集まり、帝室技芸員として著名な彫刻者新海竹太郎に委嘱し、利中尉騎乗姿を鋳造し、明治41年(1908)9月この地に建設したものである。 しかるに、昭和19年(1944)太平洋戦争の苛烈に伴い軍需資材として供出され、今はその台座のみとなったものである。                       昭和45年 盛岡市

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●二の丸

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●三の丸

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国指定史跡(1937.04.17)

名称:盛岡城跡(もりおかじょうあと)
別名:不来方城(こずかたじょう)
城郭構造:連郭式平山城
天守構造:御三階櫓(1842年以降は天守)
     不明3重(1633年築)
     独立式層塔型3重3階(1676年再 非現存)
築城主:南部信直
築城年:慶長3年(1598)
主な改修者 :南部重直
主な城主:南部氏
廃城年:明治4年(1871)
遺構:石垣、土塁、堀、移築土蔵・門
管理団体名:盛岡市(昭12・6・23)
慶長二年 南部利直ノ經始セルトコロニシテ 寛永十年全城竣工ノ後漸次修理ヲ加ヘ 子孫相継テ之ニ居リ以テ明治維新ニ至ル
城構ハ本丸、二之丸、三之丸ヲ備ヘシガ 後陸軍用地トナリ 建物ハ除カレ再ビ南部家ノ有ニ歸シ 明治三十九年公園トナレリ
今濠湟石壁土壘尚ヨク存シ 舊規模ノ見ルベキモノアリ


盛岡城といえば、石川啄木の歌を思い出しますよね~

『不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心』

             いいですね~、啄木の歌の中で一番好きかも・・・


と言いながら、盛岡には数回来てますが、登城するのは初めてです。

訪問したのは、やっと紅葉が始まったという頃で、色づいた葉もちらほらと・・・


今は、中津川が城跡との境を流れているだけですが、記事巻末の「今昔図」にあるように昔は北上川(北上古川)が市内を流れ、下の橋下流で中津川と合流していた。
この合流地点に築城されたのが盛岡城なのだそうです。

城は2つの川に挟まれ、さらに城内の堀、外曲輪、その外に総構え(遠曲輪)という
三重の塁濠によって守られていた。
その規模、東西1,100m、南北1,300m。
中核となる城内の標高は143m、比高20m。

城内は本丸、二の丸、三の丸などから構成され、盛岡産花崗岩を用いた石垣によって区画されている。
本丸は南端に位置し、東西70m、南北55mほどで、三層の天守が建っていた。
二の丸は、本丸の北側に位置し東西90m、南北55m、
三の丸は、その北で東西80m、南北45mほど。

石垣は壮大で、当時の城は堂々としたものだったろうな、と思います。
南部藩は、会津藩とともに徳川幕府では地位が高かったそうですから、当然かも知れません。

新政府になって軍隊が置かれたとあって、遺跡のようなものは何も残っていません。

本丸にある巨大なモニュメントのようなものに違和感を抱いて近寄ってみたら、
銅像の台座だった。
最後の藩主の長男で、日露戦争に従軍し戦死した南部利祥の騎馬像があったとか・・
旧盛岡藩出身の東條英教(東條英機の父)や、原敬(第19代内閣総理大臣)
鹿島精一(株式会社鹿島組の初代社長)らが中心となって、市民の賛同を集めた。

製作にあたっては、
銅像の身体部分を新海竹太郎(九段坂公園の大山巌像制作)馬体を後藤貞行(皇居前広場の楠木正成像の馬体制作)が受け持ち、
台座は伊藤忠太(意匠)横浜勉(設計)など、当代の一流どころを集めたということです

またもや戦争による金属供出でもっていかれるとは、予想もしなかったでしょう。

◎盛岡城の歴史

南部氏(なんぶし)は,甲斐源氏の一族でしたが,南北朝時代のころより糠部(ぬかのぶ=青森県三戸郡・八戸市周辺)に基盤をおき、室町・戦国時代にはしだいに勢力をのばして、奥州北部の有力大名に成長します。

天正16年(1588)南部信直(なんぶのぶなお=初代盛岡藩主)は斯波(しば)氏を滅ぼし、天正18年(1590)には豊臣秀吉から,南部七郡の領有を認められます。
翌天正19年(1591)秀吉の重臣・浅野長政(あさのながまさ)の助言により、信直は三戸から不来方(こずかた)に居城の移転を決定。
慶長2年(1597)には,嫡子の利直(としなお=2代盛岡藩主)を総奉行に、鋤鍬初(すきくわはじめ)が行われたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。

この地は、旧北上川と中津川の合流点の丘陵で、かつて南部氏の家臣・福士(ふくし)氏の不来方城(こずかたじょう)が存在した場所です。
ここに、新たな縄張で石垣を巡らし、本丸・ニの九・三の丸を築きました。

また、内丸から本町方面、中津川対岸の内加賀野・紺屋町・肴町・穀町方面にも,外曲輪(そとくるわ)や、総構(そうがまえ)の堀を巡らし、
さらに慶長14年(1609)から慶長17年(1612年)にかけて、中津川両岸が上の橋・中の橋・上の橋で結ばれ、城下町の建設と整備が進められました。

以来、盛岡は江戸時代を通じて盛岡藩の中心として栄え、現在の盛岡市へと引き継がれます。

明治の廃藩置県の後、城は明治5年(1872)には陸軍省所管となり、明治7年(1874)に城内建物はほとんど取り壊されました。
明治36年(1903)に岩手県により公園整備が開始され、明治39年(1906)に「岩手公園」として開園しました。

その後、所管は盛岡市に移され、国指定史跡となり、東北随一の美しい石垣を見ることができます。
昭和59年(1984)からは,市が石垣修復工事と発掘調査を行っています。(盛岡市)

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                       (内丸 2013年10月14日)



岩手・盛岡 / 上ノ橋

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上ノ橋:国認定重要美術品(工芸)(1945.8.3)
    青銅擬宝珠(せいどうぎぼし) 18個

下ノ橋:盛岡市指定有形文化財(工芸)(1971.2.1)
    青銅擬宝珠 18個
所有者・管理者名:盛岡市

概要
盛岡藩時代、中津川にかかる「上ノ橋(かみのはし)」と「中ノ橋(なかのはし)」の欄干につけられた青銅鋳物擬宝珠36個のうち、上ノ橋の18個が国の重要美術品に認定されています。

あとの擬宝珠は、中ノ橋が洋式架橋された大正元年(1912)11月に、下ノ橋(しものはし)に移され、市の有形文化財に指定されています。

南部家所伝によると、これらの擬宝珠は、南部遠江守政行(なんぶとおとうみのかみまさゆき)が在京中に、加茂川の橋の擬宝珠を写すことの勅許を得て、領国・三戸城(さんのへじょう)熊原川の橋に取り付け、黄金橋と称したことが伝えられています。

慶長3年(1598)南部利直(なんぶとしなお)が、盛岡城普請に着手し、城下建設の一歩として、城下中央を流れる中津川の清流に、慶長14年(1606)に「上ノ橋」、慶長16年(1608)に「中ノ橋」、慶長17年(1609)に「下ノ橋」の三橋を架け、上ノ橋と中ノ橋にこの擬宝珠を移しました。

しかし中津川は,北上・雫石両川の合流地点に注ぎ、三川落ち合って水勢・水量の変化が激しく、しばしば洪水の厄いに遭い、落橋・流失を繰り返しました。

そのたびに、不足した擬宝珠は鋳直して常に原数に復元され、寛政年間には上ノ橋に18個、中ノ橋に20個の擬宝珠が付けられていたと「篤焉家訓(とくえんかくん)」に記録されています。

現在、上ノ橋在銘が17個、中ノ橋在銘が19個あり、原数より2個欠損していますが、いずれも藩政期の文化を表象するものです。(盛岡市)


●橋の位置と様子

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中津川に架かる「上ノ橋」から、この日の町歩きを始めます。
単に出発点として、橋の写真を撮ったのですが、
思いがけず、欄干に取り付けられた擬宝珠(ぎぼし)がとても古い物だったと分かりました。青銅製の擬宝珠はとても貴重なものだそうです。

上と下の橋は、城下町を彷彿とさせる造りですが、
中の橋は交通量が多いためか、鋼鉄製なのが少し残念ですね。



*『重要美術品』とは、文化財保護法施行以前、旧「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に基づき日本政府(文部大臣)が、日本国外への古美術品の流出防止を主目的として認定した有形文化財のことである。

昭和25年(1950)に「文化財保護法」が制定され、その段階で全て指定を解除され、改めて重要文化財に指定され直した。
その中から、重要な物件に関して国宝に格上げする、という形を取った。

旧国宝並びに重要美術品に指定されながら、重要文化財に指定漏れとなった作品は、この時点から重要美術品扱いとなった。

なお、重要美術品については「指定」と言わず、一貫して「認定」の語が用いられている。



                     (上ノ橋町 2013年10月15日)


蕎麦いなり

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3月14日(金)

最近は天候が荒れてますね~、暖かくなったり寒かったり、嵐もあって・・・
これも、春到来の知らせなんでしょうか

そんな中でも、修繕工事は着々と進み、南ベランダ側壁面の下塗りまで来ました。
思ったほど臭いも感じません。
玄関ドア枠塗りのほうが臭かったから、塗料が違うのかな?

シックハウス気味の子が、いざとなったらホテルに行く!と言ってましたが、
このままなら大丈夫そう・・・

寒くても、雨が降っても強風が吹いても、仕事をこなす職人さんて凄いわ~
さすが、ガテンman!


ところで、きょう明け方の地震は驚きました。
久しぶりの強い揺れだったようですね。

消し忘れたTVで伝えていたのでビックリ! 数日は余震に気をつけてください。
こちらも東日本大震災の後、強い揺れが来て被害がありましたから・・・



さてさて、タイトルを見て、そんな稲荷神社があったっけ?と思いましたか?

いーえ!! 稲荷ずしの蕎麦バージョンです。

これもTVで最近流行っていると言ってました。
そういえば、どこかのお稲荷さんの門前で見たことがあったかな~??

これも出来るわ!と思ってやってみました。
情報番組は料理のヒントになります! ありがとう~~

私は、お蕎麦やうどんを食べる時、ついでにおいなりさん頼む率90%なので、
これは、一度に楽しめると思いませんか・・・??

蕎麦通には邪道であると言われそうですが・・・



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油揚げの袋は煮てもいいんですが、今回は市販されている物です。
食感がチョッと良くないですが、昼食で手早く作る時には助かります。

助かると言えば、すし飯を作るのは手間もかかるし、ある程度の量を炊かないといけませんが、蕎麦なら少量でもOKなので良いですね。


1、乾麺は、普通にゆでて冷水でしめて、水気を切っておきます。
2,インゲンをゆでて小口切りにしておきます。
3,お店では、そばつゆと和えるらしいですが
  今回は「食べる醤油」で、ボウルの中で、そばといんげんを和えます。
4,煮た油揚げにそばを詰め、揚げ玉(天かす)を乗せて、出来上がり

油揚げ5枚(10袋)に、乾麺1束で出来ます。
すし飯を詰めるより、指にクルクルと巻きつけて入れれば簡単 
それに、お米より軽くてお腹にドッシリ来ません。ヘルシーかも

蕎麦ストレートでもいいですが、
混ぜるものも、ちりめん山椒や煎りゴマ、または菜っぱのおひたしとか・・

そばつゆの代わりにドレッシングにしてみるとか・・・
トッピングも、海苔やネギ、大根おろし、紅ショウガなど

バリエーションが工夫できそうです。

私的に、チョッとはまりそうな予感あり・・・


盛岡の町と近江商人

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盛岡の町と、商家について記事を書こうと思って、調べていくうちに、
近江(滋賀県)から渡ってきた商人が、重要な役割を果たして来たことが分かりました。

北前船に関しても、近江商人が各地で活躍していることは以前記事に書いたとおりですが、
盛岡市内にも来ていたとは初耳でしたので、面白く読ませて戴きました。

後で紹介する店なども出て来ますので、前もっておさらいしておきます。

この件に関しては、個人のHPにもたくさん書かれていますが、
ここでは、岩手県の公式HPと高島市の広報記事を参考にしました。

☆盛岡の誕生

 戦国時代に南部氏が支配していた津軽地方は、大浦(津軽)為信(おおうらためのぶ)のいち早い小田原参陣によって秀吉に公認され、南部氏の領地ではなくなりました。
このことによって、居城・三戸(さんのへ・青森県三戸町)は領内の北に片寄ってしまい、治府として地理的に不適当な位置になります。

そこで南部信直(のぶなお)は九戸政実(くのへまさざね)の乱後、その居城だった「九戸城(二戸市)」を「福岡城」と改名し移り住みます。
さらに、蒲生氏郷や浅野長政の勧めもあり、居城を岩手郡仁王(におう)郷不来方(こずかた)に南進させることを決定します。新都市「盛岡」の誕生です。

盛岡が選ばれた理由は、
(1)北上川の水運が利用できる交通の要衝であったこと。
(2)北方の渋民(しぶたみ・盛岡市)や沼宮内(ぬまくない・岩手町)などを経由して九戸城に達する街道沿いであったこと。
(3)北上川と中津川に囲まれた、花崗岩台地からなる天然の要害であったこと。
などが挙げられます。

 文禄元年(1592)秀吉から内々の許可を受けた信直は整地作業を開始。
築城開始には諸説あるものの、慶長3年(1598)説が妥当と思われます。

築城の実際の指揮は信直の嫡子・利直(としなお)があたり、慶長3年の秀吉、翌慶長4年(1599)の信直の死などによってしばしば中断しましたが、慶長年間(1596~1615)中頃には一応の完成をみたようです。

しかしその後もしばしば洪水の被害を受けるなどし、正式に居城として定められたのは寛永10年(1633)三代藩主・重直(しげなお)が帰国入城した時です。
実に36年の歳月を要したことになります。

 築城と前後して、街づくりも始まりました。
城下の町割りは「五ノ字」型の街路とする政策がとられました。

城を中心とした第一圏に五百石以上の上級武士、第二圏には商人や職人、第三圏には五百石未満の一般武士を、城下から村々に至る街道沿いには足軽(同心)が置かれました。
上田組町や仙北組町がこれにあたります。

さらに防衛上の見地から、城下北東の山麓に神社仏閣の移転と建立が行われました。

 侍町は最初、下小路(したこうじ・愛宕町付近)や上衆小路(かみしゅうこうじ・馬場町付近)が作られ、その後、北上川の改修工事を経て大沢川原(おおさわかわら・大沢川原三丁目付近)、帷子小路(かたびらこうじ)、平山小路(ひらやまこうじ・いずれも中央通三丁目付近)などが誕生しました。

 町人街はそれぞれ商人の出身地名を町名として生まれます。

三戸からやってきた町人の「三戸町(さんのへちょう・本町三丁目付近)」が始まりで、秋田県仙北郡から来た町人の「仙北町(仙北一丁目付近)」などが作られ、慶安4年(1651)には「盛岡二十三町」が成立しました。

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今まで見てきた各町と、これから紹介する町に関してピックアップしてみると・・・


◎川原町(かわらちょう)・穀町(こくちょう)→南大通二丁目

 穀町は、のちにできた新穀町とともに、惣門(そうもん)を中心にした町。
文化9年(1812)二つの町に分かれた。
両町と川原町には豪商が多く、糸治、木津屋、泉屋をはじめ、いろいろな商家がならび盛岡城下では、最も繁盛した地域だった。

穀町は、古くは「三日町(みっかまち)」といわれたが、師走の9、19、29日の3日間、新山河岸の御蔵の米を払い下げたため、「穀町」という名になった。
惣門には、枡形と御番所、役人屋敷24戸があって、城下への物と人の出入りを取り調べた。
門は朝6時に開け、夕6時に閉じた。
また、穀町には旅館が多く、諸国や藩内の商人、旅人、北辺警備の東北諸藩の派遣隊が宿泊した。

◎鉈屋町(なたやちょう)→鉈屋町

 むかし京都から豪商鉈屋長清が盛岡にやってきて、釶屋山菩提院(やおくざんぼだいいん)という寺を建てたのが町名の起りである。
昔の鉈屋町には、水主町(かこちょう)、十文字、下町(したちょう)、お鷹道などがあった。
水主(かこ)というのは、北上川の水運の舟や、舟橋の仕事をしていた。また、殿様の飼っている鶴に食べさせる小魚をとる役目もしていた。

鉈屋町は、宮古方面、釜石方面、金山の大萱生(おおがゆう)などからくる人の、はじめて盛岡に入る一本道だったので、ここでいろいろな買物ができることから、多くの大小の商売屋があった。

大慈清水や青龍水は有名だが、この湧水は冬は湯気が立つほど温かいので、神子田(みこだ)、仙北町(せんぼくちょう)方面から野菜を持って来て洗い、馬町の青物市場に出す人が多かった。

◎新町(のちに呉服町・ごふくまち)・六日町(むいかちょう)→中ノ橋通一丁目

 もと新町と言い、呉服町と改称されたのは文化9年(1812)で、中町とも呼ばれていた。
「盛岡砂子(すなこ)」に「呉服町は”札の辻”南二丁」とあるが、『札の辻』とは、旧岩手銀行中ノ橋支店あたりで、毎月26日が新町の市日であった。

慶応4年(1868)の「南部家御用金被仰付人員(なんぶけごようきんおうせつけらるじんいん)」番付によれば、
西方大関、小野組最大の支店であった井筒屋善八郎を筆頭に、渋谷善兵衛(味噌醤油、呉服)、近江屋治郎兵衛(呉服)、井筒屋徳十郎(酒屋)、近江屋市左衛門(酒屋)、近江屋善六(質屋)、近江屋覚兵衛(呉服)等の豪商老舗が店を張っていた。

六日町は呉服町と上衆小路の間にあって二丁余。
市日は毎月6、16日で、ここには木津屋権治(醤油)、油屋孫六(油屋)等の店があった。
盛岡中央郵便局の前身・盛岡郵便役所が明治5年(1872)5月に開設されたのはこの六日町であった。

◎紺屋町(こんやちょう)・鍛冶町(かじちょう)・紙町(かみちょう)→紺屋町

 慶長年間、盛岡城下には上・中・下の中津川三橋が架けられ、上の橋と中の橋との間には、中津川東岸に沿って上流の方から紙町、鍛冶町、紺屋町という一続きの大きな町並みがつくられた。

この町並みには、幕末ごろには紺屋町の鍵屋茂兵衛、沢井屋九兵衛(茣座九(ござく))、井筒屋伝兵衛、また鍛冶町の向井屋半兵衛、鍵屋定八、あるいは紙町の井筒屋弥兵衛、大塚屋宗兵衛などという屈指の豪商老舗が軒をつらねて、盛岡城下における主要な商店街となっていた。

いまも紺屋町の茣座九の店構えには、昔の盛岡の古い面影がある。

また、ここの道路は、藩政時代の奥州道中(街道)の要路にあたっていた。当時の奥州道中は、穀町の惣門を入ってここを通り、上の橋を通って本町から上田方面に向かっていた。
そこで鍛冶町の中程には道標があり、それを起点として藩内四方への里程を測ったものだった。

◎本町(ほんちょう)・油町(あぶらちょう)・大工町(だいくちょう)・寺町(てらまち)→本町通一丁目

 本町は盛岡城の大手先を東西に走る奥州道中の一部になっていて、京都方面から下ってきた商人が多く住んでいたので、はじめは「京町(きょうまち)」と呼んだが、文化年間(1804~18)になって本町と改められた。
幕末のころには日野屋市兵衛、大和屋茂右衛門、高田屋伊助、岩井屋権助、鍵屋伊兵衛などの店鋪がつらなり、河北地区の主要な商店街となっていた。

また、本町につづく西の町並みは八日町といい、本町の北裏には油町や大工町があった。
油町には、油屋や荒物屋や牛馬宿があり、大工町は、むかし多くの大工職が住み、大工小頭がいたところだった。
そして本町から北山の寺院地区に通ずる道筋は、古くは寺町と呼んだが、そののち文化年間になってから、花屋町(はなやちょう)と改められた。

ー以上、HP「いわての情報文化大事典・歴史に触れ、故郷を知る」より一部転載ー


☆南部藩に雄飛した高島商人

 近江商人というと、八幡や日野、五個荘など湖東の商人を連想しますが、高島から遠く岩手・盛岡にまで出かけて定住した高島商人を見落としてはなりません。

高島地域での商人の発生は中世に遡り、安曇川町南市には五番領城下「立市」で開かれていた市で商いをしていた南市商人がいました。
南市商人は、小幡商人らと共に五個荘商人団に含まれ、若狭から九里半街道を通り、塩魚などを運搬していました。

天正元年(1573)高島郡が織田信長によって平定されたことにより、総ての城館が取り壊され、同時に南市庭(みなみいちば)も終焉を迎えます。

その後、南市商人は磯野員昌(いそのかずまさ)により新庄城下(新旭町)へ強制移住させられますが、天正6年(1578)新庄城主となる信長の甥、織田信澄(おだのぶすみ)は大溝に水城を築き、南北に城下町を造り、再び南市商人は大溝へ移住します。

資料には、その後の南市商人の経歴は明らかではありませんが、前後して村井新七は南部藩に向けて旅立っています。

盛岡は「みちのくの小京都」と呼ばれます。
南部利直によって40年の歳月をかけて京都に倣ったまちづくりを進めました。

主な街道の入り口には惣門や枡形を設けて人や物資の出入りを取り締まり、後にはその先に同心丁を置いて、同心に警備をさせました。
さながら、盛岡城は全体が「防備都市」だったと伝えられています。

南部氏は、城内に通ずる大手門の正面玄関の真ん前に商人町をつくりました。
南部氏が商人を優遇し、特に近江商人たちに「京町」と名付け一等地を与える英断を図りました。

さて、このような「受け皿づくり」が進む中、高島商人のパイオニア村井新七は慶長15年(1610)遠野の横田に入ります。
そして、その際同行していた2人の弟はそれぞれ遠野と釜石に定住しますが、新七は3年後に盛岡城下に移りました。

新七の先祖は岸和田城主浅井氏の九男で高島郡村井庄を領していましたが病のため武士を廃し帰農し郷士となっていました。
しかし浅井氏の滅亡後は大溝を離れ京都に隠れ、商人となります。
大阪の陣があり徳川方として参戦していた南部氏との関係が深まり、新七を盛岡に呼び寄せたのです。

                  ーー中略ーー

村井新七は町割りができた京町(上ノ橋西詰)に土地を与えられ、郷里高島からやってくる人たちの『草鞋脱ぎ場』となりました。

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『草鞋脱ぎ場』は同郷の高島商人たちの宿を提供して商売をさせるだけではなく、現代の系列化やチェーン化のための足だまりであったとされています。

丁稚として雇用し商人教育を施し、後には暖簾と資本を与え独立させ周辺地域に系列店を広げさせました。
この系列店を「内和」と呼び、協同組合的な性格を持ち、経営難になった場合は無利子で融通しあうと共に、奉公人や子弟の共同管理も行っていました。
さらに、競業を禁じ、暖簾分けし出店時には同業を許しませんでした。

盛岡における大溝系近江商人の三始祖といわれるのが、村井新七、小野権兵衛、村井市左衛門です。

小野権兵衛は寛文2年(1662)新七の誘いを受け盛岡に下り、養子となり村井権兵衛を名乗りました。
元々商家の次男であり、商いの他酒造技術なども身につけ、当時盛岡では知られていない「すみ酒」の製法に通じ、後に志和に独立し「村井近江屋」を開きました。

村井市左衛門は新七の同族で、盛岡では酒造業や質屋を営んでいます。
明治には、第九十銀行創業の一人となる近江屋勘兵衛ら有力商人を輩出しています。

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ー以上、広報たかしま100号(平成21年10月)特集「近江商人来盛四百年」より抜粋ー


以上、近江商人を送り出した側、迎え入れた側の記事を紹介しました。
どちらにしても、商人の活躍無しに城下が繁栄しなかったということが、
政権の商人の取り扱い方に現れているように思いました。

それにしても、盛岡にまで進出していたとは、近江商人恐るべし・・・
この先、またどこかで顔を出すかもしれませんねぇ

行ったことが無い方には、ちんぷんかんぷんだったかもしれませんが、
私には、五個荘の町並みや商人屋敷、鯖街道、盛岡の町並み、さらには北前船まで・・
その光景が頭を巡って、またひとつ歴史の抽出しを開いたような心持ちです。



岩手・盛岡 / 旧井弥商店(現・盛岡正食普及会)

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(1995年撮影)
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盛岡市指定保存建造物No.3

名称:旧井弥商店(現盛岡正食普及会)
所有者:加賀野土地株式会社
構造形式:土蔵造2階建(店,蔵共)
建築年代:店:明治末期
     蔵:江戸時代
面積延長:店:267.2
     蔵:267.2
用途:店:呉服問屋店舗
   蔵:倉庫
建築依頼主:村井弥兵衛
外観材質:土蔵(黒漆喰塗)
設計者:店:東京神田の人といわれている
施工者:大工:徳田郎・市太郎
    左官:清治郎と書き残されている
 現在、店舗事務所として使用されている2階建土蔵造。
1970年9月火災にあい,屋根が落ちたため修復し,現在の形となった。

屋根は瓦葺き寄棟造り,外観は土蔵、大壁式艶出し黒漆喰仕上(一部白漆喰塗)

窓には外開きの土蔵式防火戸、窓上部に木製庇を設け、腰壁は人造石研出し仕上げとし、軒天井は木造を顕さず、すべて漆喰塗りとし、防火に配慮してある。
軒天井の持ち送り蛇腹、軒樋受け金物、呼樋に特徴がある。
防火戸のない窓は火災後に改修された窓である。

内部は、真壁式と木造柱、梁顕しの仕上げである。
岩手銀行煉瓦造の室内と同じく、県南産のけやきを使用している。
1階の店舗内部は、階段と共に昔の姿をしのぶことができるが、2階は火災後修復のため現代化されている。
●同蔵
 屋根は桟瓦葺、切妻造り、外壁土壁大壁式漆喰塗仕上げ、窓鉄格子金網付き外開きの土蔵式防火戸を設け内側には片引き戸がある。
基礎はコンクリートに改造、軒天、切妻破風は鉄板包木部顕さず、防火構造である。
内部は間仕切りなく外側壁は間柱に横板嵌めこみ。
1階天井は2階床組顕し、2階天井は垂木小屋野地板顕しである。1階床は叩きに改造。

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                      (藏内部の写真はHPより転載)



●丸竹餅店
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上ノ橋を渡って、紺屋町との交差点に、黒漆喰の土蔵造りの建物があります。

井筒屋(井弥)の建物だった店である。
初代は井筒屋弥兵衛こと村井弥兵衛。
高島出身の近江商人で「井筒屋」の支配人から独立し、天保3年(1832)に
呉服・太物商として出発した。
井筒屋弥兵衛は氏と名を一字ずつとって「井弥」と屋号を定めた。

豪商、小野組(初代小野善助に始まり「井筒屋」を名乗った江戸時代の豪商)
の影響を強く受けた。
小野組は明治7年に破産したが、ここは残った少数の井筒屋系商人。
明治中期から、紙、醤油、味噌に職変えして、盛岡きっての大商人となった。

村井弥兵衛の一派は、明治中頃まで盛岡の財界を牛耳る存在だった。
明治29年(1896)に県内初の商業銀行として「盛岡銀行」が創設された際に、
村井弥兵衛が初代の頭取に就いたそうです。

この建物は、明治の盛岡大火後に建てられたそうである。
粋な黒漆喰の土蔵造りで、呉服問屋の豪商の名残りをとどめている。

余談ですが、昔の商店って、それ一筋という老舗ももちろんありますが、
たまに思い切った大転換な商売替えをするケースがあって、驚きます。
フレンチのシェフがラーメン屋に転身したなんて甘い甘い・・・(笑)

以前撮った時は、ホントに真っ黒という感じでしたが、今はチョッとくたびれ気味?

現在は「盛岡正食普及会」が無添加のパンなどを販売しています。
素朴で、内容がドッシリ充実してそうなパンが並んでいました。

背後には土蔵が軒を連ね、当時の繁栄が覗えます。
ここも、現在はギャラリーやカフェになっているとのこと。


並び建つ「丸竹餅店」は、
HPによれば、初代・大平竹松が、盛岡城撤去の二年前、明治5年(1872)
城内の内丸の一角に、内丸の「丸」と竹松の「竹」から「丸竹」の暖簾を掲げた。

初代は、日本古来の餅を世に広げようと、独特な「黒蜜」と「きなこ」を混ぜて、
元祖「あべ川餅」を考案。
また明治9年、岩手山より雪を持ち帰り、かき氷として「白雪」と名づけて提供した
との伝承がある。とのこと

東北の人って、全般的にお餅が好きで、よく食べるようですね~

「安倍川餅」を考案とあると、静岡県人は??と思ってしまいますが・・・
材料を見ると、むしろ「信玄餅」のほうに近いみたい。



                    (上ノ橋町 2013年10月15日)



岩手・盛岡 / 「菊の司酒造」ほか(紺屋町を歩く)

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「旧井弥商店」のある信号を南下して、中ノ橋まで、紺屋町の通りを歩きます。
この写真では、右側裏に中津川が流れています。

盛岡市内では、城下町らしい雰囲気が残っていて私の好きな界隈です。


右手前にある建物は「巴染工」 
「紺屋町」の地名にふさわしい、染色店です。

染物・洗い張り、手拭い、のぼり製造、旗製造、半てん製造、ふろしき、幕など、扱う品は多種多様のようです。


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●当社の歴史(巴染工HPより)
 
 創業者である東條代助は、明治9年(1876)に山形に生まれ、米沢工業専門学校(現・山形大学工学部)にて化学染料を使った最新の染め技術を学んだ。

後に宮城県古川郡役所で巡回講師として働いた。
その後、明治36年(1903)に岩手県染織講習所にて職人の人材育成に努める。

 化学染料・藍染め・植物染料・鉱物染料の指導、県内の各地も巡回講師として普及指導をした。

 明治41年(1908)32歳の時に、代助が生涯盛岡で生きることを決意し、今の紺屋町に創業をしました。
当時、紺屋町には14軒もの染物屋があり、城下町の担い手になっていました。
絹や麻を中心に染め、また着物・半天・手拭いの需要が多かったと聞きます。

二代目新太郎は、昭和16年(1941)に岩手県半天商業組合の設立・初代理事長を務め岩手の代表として業界へ貢献した。
三代目信夫は、東京・神田で浴衣や手拭いの修行し衣類の染や半天・のぼり・手拭いを主に製造していた。

その後、昭和26年(1951)に「有限会社巴染工場」を設立する。
また、平成3年に岩手県卓越技能章を授与。平成7年には勲七等青色桐葉章を叙勲いただきました。
 4代目の弘は、昭和39年から家業に専念し、ドイツの染色方法であった反応染料による染色技術を習得し業界へ広めていった。
染色方法も時代とともに変化し続けてきているのが特徴である。

また、平成19年に4代目弘は5代目誠へ引き継ぎ、第2工場を設立し企業の発展に努め今日に至っております。
同年、「巴染工株式会社」へ社名変更をしました。

わが社は、103年間という歴史において、染を通じて地域の皆様に支えられて今日まで続けてこられたことに多大な感謝をしております。

伝統と新しい技術の融合で100年以上、ということか・・・
老舗も努力していらっしゃるんですね。


●菊の司酒造

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清酒「菊の司」「七福神」、米焼酎「だだすこだん」の製造・販売をしている。

創業元和年間(1615~1623)、伊勢松阪から陸中郡山(紫波町日詰)に移った初代平井六右衛門が御宿を開業したのが始まり。
その後、安永年間に六代目六右衛門が酒造業を始めてから今日まで、造り酒屋として240年もの伝統を築き上げてきました。(菊の司酒造HPより)


蔵元のルーツを遡ると、江戸時代の初期とされる元和年間、平井六右衛門氏を初代となります。
創業当初の屋号は「伊勢屋」といい、志和米の取引で基礎を固めた後、八戸藩の御用商人となり、北上川を用いて年貢米や買い付け米を船で江戸に運ぶ事業を任されます。

その際に利用する、米などを保管する倉庫や宿泊所などの建物を「御蔵宿」といい、奥州街道を上下する武士階級が宿泊する上宿(高級旅籠)を兼ねていたとの事。

旅籠には酒が必要です。
そういう理由かどうかは解かりませんが、6代目となる安永年間(1772~1780)に酒造業に参入。当時の酒名は「平の井」だったそうです。

明治初年には盛岡に支店を開設。
大正時代、12代目当主は政界にも進出され衆議院議員と貴族院に当選され議員を務められます。
昭和2年(1927)に蔵を現在地に移転し、昭和4年(1929)に「株式会社 平六商店」として法人化。
その際に、新聞公募によって酒名「菊の司」が誕生します。
菊の司の酒名は、極上の酒だけに命名されていたそうです。

その後、第二次大戦の企業整備例によって盛岡の全ての酒蔵が1蔵に集約。
昭和29年(1954)に新たに免許を取り直し酒造業に復帰。

昭和43年(1968)には社名を「菊の司酒造」と改め現在に至ります。
約400年前、祖先がこの地で商売を始め、発展もあれば苦難も経験された長い歴史を持つ酒蔵です。(HP「日本の酒蔵巡り」より転載)

城下町の酒蔵らしい歴史ですね。


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「駿府城(すんぷじょう)」のあった静岡市も、城下町の名残の地名が多くあり、
紺屋町という町名もありますが、「こうやまち」と読みます。

・・・なので、盛岡でも当然「こうやまち」だと、長い間思い込んできました。
今回「こんやちょう」と読むのだと初めて知りました。地名は難しいものです。^_^;



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                      (紺屋町 2013年10月15日)



岩手・盛岡 / 旧紺屋町番屋(旧・盛岡消防団第五分団屯所)

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(1994~1995年撮影)
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盛岡市指定保存建造物No.11

名称:紺屋町番屋(こんやちょうばんや)
大正2年(1913)7月18日竣工
設計:不詳
施工:大工:石倉久太郎ほか
建築依頼主:盛岡市消防組第四部
構造形式:木造2階建望楼付、下見板張
面積:約159屐雰果明僉
用途:消防屯所
所有者:個人
明治24年(1891)盛岡消防よ組番屋として現在地に建てられた建物を、大正2年(1913)消防組第四部事務所として改築されたものが現在の建物といわれる。

現在の建物の棟札によれば、大工・石倉久太郎、同山下熊太郎、屋根葺・小笠原長次郎、石工・岩野兵次郎、左官・工藤喜三郎、塗屋・山口平助とある。

建築年代は、棟札に「大正貳年七月中浣」とあり、同消防団の聴取りでは、「1913年5月3日起工上棟式(あげむね式)を13時より行なった。」とあり,これを採りたい。

建物は木造2階建で、1階は元来消防器具の常置場が大半を占め、花崗岩の石畳となっているが、現在はその一部を上がり座敷に改造(1958年)し、街路二面に接する部分を消防車々庫としている。

現在の車庫入口ではない面の道路側に吊引戸が残されており、改造前は、これが主入口であったことを物語っている。
2階は畳敷の広間となっており、寄合の多い番屋の機能を示している。
2階からは,回り階段で屋根裏を通って屋根上の望楼に登ることができる。

全体の構成は、当時の学校建築をはじめとする、公共施設に見られる木造様風の形式に類するもので、洋小屋組寄棟屋根、南京下見ペンキ塗の外壁、六角形の望楼、外開きの2階窓などで、その様式を表現している。
完成当日の模様を、岩手日報紙は「外観の美と相俟ち消防夫の作業上,頗る便利なるべし」と報じている。

現状の外壁塗装色は、下見板部分が淡灰色で、建具と縁取りは肌色に塗り分けている。

建坪約87平方m,床面積約159平方m。

紺屋町の通り、中ほどに「旧紺屋町番屋」が建っています。
町火消「よ組」を前身とする盛岡消防団第五分団の屯所だった建物です。

盛岡も大火が度々起こり、火の見櫓の多い町だったそうです。
この番屋に見られるように、町家の上に望楼を載せるという、ユニークかつ、堂々とした造りになっています。
この造りは、三八上北地方によく見られるようです。

盛岡市消防団のHPによれば、
寛永18年(1641)1月、江戸京橋桶町から出火した大火の際、
当時江戸屋敷で謹慎中の身であった南部藩主重直は、あえて禁を犯して
家臣とともに町に飛び出し、果敢な活躍でこの猛火を食い止めた。

将軍徳川家光は、この活躍を激賞して直ちに重直の謹慎を解く。
恩赦に感激した重直と家臣たちは、以後消防の任務を熱心に研究した。

その後も世界三大大火の一つに数えられる「明暦の大火」での活躍をはじめ、
江戸における南部藩の消防の功績はめざましく、江戸で「南部火消し」はその名声を大いに轟かせたと伝えられている。

・・・江戸で活躍したのは「加賀鳶(とび)」だけではなかったんですね。

盛岡の町火消の先駆けは、天明3年(1783)に創設された「いろは組」と「ゑ組」で、文化10年(1813)には、8組960人で組織されていたと記録にある。

「町火消組」は明治10年(1877)に「消防組」に改称され、第二次大戦下の「警防団」の時代を経て、昭和22年(1947)4月30日に「盛岡市消防団」が14分団体制でスタートした。

第五分団の前身「よ組」については、
寛永10年(1633)南部利直が城下町北側に街を造り、田町と称され、奥州三戸から庶民を移住させた。
その後、民衆が田印の纏をもつ火消組を造り、組頭であった三之助と理平が紺屋町に移り住み若い衆を集め「た組」を結成した。

その後、城主が参勤交代で江戸を訪れた際、供をした火消しの若い衆が、同じ田印の纏を持つ江戸神田の「よ組」と親交を結び、組の呼び名を「よ組」としたのが、紺屋町「よ組」の始まり。

文化10年(1813)南部利敬公の治世の元、南部火消の組織再編が行われた際の記録にも「よノ字組」という記録が残っている。

昭和14年(1939年)の組織再編の際、盛岡市警防団第5分団に編成され、
戦後、この組織を継承する形で、盛岡市消防団第5分団となる。

なお、明治22年(1889年)11月に紺屋町から内丸にかけて架設され、現在も残る「与ノ字橋」の由来は、このよ組の番屋が橋の袂にあるためである。

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盛岡八幡宮祭りの山車行事は、宝永6年(1709)9月14日、南部藩の街造りが完成したのを祝い、全町の若衆がそれぞれ趣向をこらした「丁印(ちょうじるし)」を 八幡宮に奉納して、3日間城下目抜き通りを練り歩いたのが始まりと伝えられています。

各町内の山車のパレードや八幡宮境内で流鏑馬(やぶさめ)が行われるなど、とても賑やかで華麗なお祭りのようです。

丁印は町のシンボルという意味で、盛岡城下各町の消防、自治的組織の標識だった。
「よ組」も参加しているという事で、見事な山車です。

山車の前後に、立体的な人形飾りというのは、博多の山笠に似てますかね?

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盛岡城内にある「盛岡歴史文化館」には、明治時代の「盛岡山車」が展示されていた。
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そんな、長い歴史と文化を担ってきた「よ組」紺屋町番屋は、市消防団第五分団屯所として2005年まで使用された後、紺屋地区コミュニティ防災センターに機能を移した。

紺屋町番屋は、大正2年建築の木造2階建てで老朽化し、営繕を要した。
現在は空き家になっている。

盛岡市への寄付、活用に向けて消防団と地元住民が地権者の名義を整理しようと、所有権移転登記訴訟を起こし、2014年2月末に結審した。

番屋の地権者は当初の11人が、代替わりによって権利者の数が増え、県内外に分散していることが分かった。
権利者すべての同意を得る作業は膨大なものとなり、盛岡市への寄付と活用にあたって、大きなネックになっていた。

地元住民らは2008年に紺屋町番屋保存・活用委員会を設立。
盛岡市への寄贈と活用を求めて運動し、多数の名義に分かれていた所有権を整理するため、法的手続きを取った。

建物の歴史的価値と地元の活用の意向について、大多数の地権者の同意は得られたが、1人の納得が得られず、最高裁まで上告していた。

最高裁は2月27日、上告を棄却し、町内会と分団側の勝訴で結審した。
紺屋町町内会と第5分団の所有になり、歴史的建造物として活用を求める。
今後は裁判の事後処理と移転登記の事務手続きを行い、来年度にも盛岡市に寄贈する。

              (盛岡タイムスWeb News 2014年3月5日(水))


つい最近、身の振り方が決まったようですね。
少し寂しい気もしますが、時代の流れで仕方が無いのでしょう・・・

地権者同士の争いで、スンナリ行かない場合があるのですねぇ

こうなったら、改修工事をして内部を公開して欲しいですね。
室内には、火消の道具や纏などがあるようですし、出来れば望楼に上ってみたい!


                      (紺屋町 2013年10月15日)


岩手・盛岡 / 茣蓙九・1 表(旧奥州道中側)

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(1994~1995年撮影)
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盛岡市指定保存建造物No.14

名称:茣蓙九(ござく)(現・森九商店)
建築年代:江戸時代から明治年間
設計:不詳
施工:不詳
構造:木造2階建、瓦葺、壁漆喰塗、腰一部タイル
面積:404屐陛絞淺媾斬1階)
用途:店舗、住宅、倉庫(土蔵)
建築依頼主:各代当主
所有者:個人
茣蓙九商店は、紺屋町の東北電力社屋と三島医院との間にある。
広い敷地に、店舗・住居・土蔵等、数棟が建っている。
紺屋町の道路側に見えるのは店舗と住居であり,中津川側に見えるのは蔵と塀である。

紺屋町道路側の建物は景観上絶妙とも言える位置にある。
すなわち、信用金庫前あたりから見ると道路はゆるく「くの字形」に屈折しており、茣蓙九の建物は、ちょうど「くの字」の屈折部に沿って、道路なりに屈曲して建っている。

そのため、ある地点から見ると正面に建物が見え、建物は実際に相当の長さ(24m)であるが、見透しが右手の建物でさえぎられて、あたかも茣蓙九の建物が、もっとずっと長く続いているかのように見えるのである。

建物の屋根は、低い軒先からゆるい勾配で奥行が深いので、広い面積にわたって暗褐色の瓦が見えており、壁面は大部分格子から成っていて、繊細な感じを与えている。

建物は、昔の2階建(2階部分が低く,住居用ではなく納戸のようになっている)で、中2階の高さであり、これに一部本格的な2階建が続いているが、これらの建物の低い位置に黒い瓦葺の庇がついているために、いっそう建物が横長に感じられ、江戸から明治時代の古風な商家のたたずまいを伝えている。

瓦と格子とガラス戸から成り、一部にタイルも使っているが、明治時代の落着いた色のもので建物になじんでいる。
商店ながら現代風の看板を全く出していないのがよい。

             ーー中略、以下No.2へーー

この街区には、歴史的建造物として指定されている建物として「岩手銀行本店(現中ノ橋支店)」と「紺屋町番屋」があり、これらのものと中津川と関連して、
茣蓙九商店の景観は市中心部において盛岡らしさを表すものとして、貴重なものである。                               (盛岡市)

藩政時代、盛岡藩の老舗豪商が軒を連ねたという紺屋町、
紺屋町番屋から、旧岩手銀行本店までは、歴史的な建造物や老舗が残っています。
南部煎餅の老舗「白沢煎餅店」も、この通りにあります。

建物ウォッチングと盛岡の特産品を見ながら、ゆっくり歩くのはいいものです。

「茣蓙九」は、江戸時代後期の文化13年(1816)に、初代森九兵衛(沢井屋九兵衛)が創業した、燈明用の燈心や藁製品などを扱った商家で、現在も荒物店として営業されています。

店名の由来は「ござと畳を取り扱うことになり、店主が代々森九兵衛を名乗っていたことから、お客さんから茣蓙九とよばれるようになった(『盛岡の老舗』)」とか。

創業者の森九兵衛は、地元(盛岡)の豪商であることから、盛岡に進出してきた近江商人とは関係がないそうです。

解説にあるように、奥州街道が茣蓙九の前でくの字に折れていて、それに沿って店が広がっています。

右(東北電力側)から、住居、店、倉庫になっているんでしょうか。
江戸時代後期、明治時代中期・末期に建て増しされて、現在の姿になっています。
建て方で、なんとなく時代ごとの背景がわかるようですね。

店と倉庫の繋ぎ目にある瓦屋根の付いた、うだつのような構造物が、
正面から見ると、雁が渡っているような、何とも言い難い不思議な形に見えますが、側面から見ると、ナルホドねと思います。


この周辺、電柱を撤去してくれると、もっと城下町らしい雰囲気が出て、建物も見やすくなると思うんですが・・・


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                      (紺屋町 2013年10月15日)



岩手・盛岡 / 茣蓙九・2 裏(中津川沿い)

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●「茣蓙九」すぐ裏の歩道から「与ノ字橋」~「中ノ橋」(2013年撮影)

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●中津川河川敷の遊歩道から(1994~1995年撮影)

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中津川側からの景観は、ひとつは右岸(市役所裏)からの眺めであり、もうひとつは左岸の道路から近づいて見る場合である。

前者の場合、中津川の清流の向うに石垣の護岸があり、その上に茣蓙九の瓦屋根と白壁の蔵と、それと一体となった土塀が見える。
東北電力と岩手銀行社屋のビルにはさまれてはいるが、相当の長さ(約65m)をもち,いかにも城下町盛岡らしい景観となっている。

後者の左岸の場合は、中ノ橋を渡った方から来ると、まず岩手銀行本店(現中ノ橋支店)があり、左手の中津川上流方向には市役所庁舎、県民会館などの現代建築が並んでいるのが見える。
道路に沿って来ると、右側に茣蓙九の蔵と塀がゆるく屈曲して続き、間近に見る土蔵の重量感がせまってくる。
中津川をはさんで、現代の建築美と天保から明治の古典的建築美とのコントラストが見事である。 (盛岡市)


「茣蓙九」商店、街道沿いの姿は、その規模や佇まいが圧巻ですが、中津川から眺めた様子もステキです。

風になびく柳と土蔵、裏道を歩く人の姿など・・・

河川敷に遊歩道があるので、ブラブラ歩きながら紺屋町の裏通りを観察するのも楽しいです。


                    (紺屋町 2013年10月15日)


岩手・盛岡 / 釜定本店

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盛岡市紺屋町、「茣蓙九」の向かいに「釜定(かまさだ)本店」があります。
盛岡の伝統工芸、南部鉄器の制作・販売をしている工房です。

建物の由来や、工房の歴史はよく分かりませんが、明治時代から3代つづく老舗鋳物屋だそうです。

デザイナーを紹介するサイトによれば、3代目である宮伸穂さんは
若い頃フィンランドに住んだ事もあり、現在もフィンランドの工芸家と交流があるとか

「逆説的ですが南部鉄器は南部の二文字をとって単なる鉄器として充分に世界に理解出来るような品質、 デザインを追っていかなくては」と心がけているそうです。
また「時代とともに革新を続けていくことが、伝統技術を継承することになる」とも。

店頭には、日本古来の作品も多く見られますが、現代的なデザインの鉄器もあります。

「東北の伝統産業に現代的なデザインを盛り込む」その先駆けになったおひとりだったように記憶しています。

以前は、ここで、いろいろな鉄器を買いました。
シンプルな調理器具などを中心に買い求めたんですが、気に入ったのが「洋風鍋」。

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煮込み料理には最適でした。
少し前まで、揚げ物をするのにも使ってましたが、油がこびり付きそうで止めました。

今は土鍋で炊飯していますが、底にヒビも入ってきたし、壊れたらぜひ南部鉄のご飯釜を買いたいと思っています。

◎南部鉄器の歴史

 南部鉄器は、17世紀中頃、南部藩主が京都から盛岡に釜師を招き、茶の湯釜をつくらせたのが始まりといわれます。

万治2年(1659)京都から御釜師小泉五郎七清行を呼び茶の湯釜を作ったのが南部鉄器のはじまりです。
南部鉄器は南部の殿様の保護のもとで発達してきました。
現在の南部鉄瓶の形が出来上がったのもこの時代です。

南部家に召し抱えられていた3代御釜師小泉仁右衛門清尊が創案したものとされています。
茶釜を小ぶりにして改良したのが始まりで、一般の人にも手軽に用られるようになりました。

以来、良質な原材料に恵まれたことや、藩が保護育成に努め各地より多くの鋳物師、釜師を召抱えたことで発展を続け、その製造品も茶釜から日用品にいたるまで広い用途に応じていました。

明治時代には皇太子(後の大正天皇)が鉄瓶づくりを見学されたという記事が全国の新聞に掲載され、南部鉄瓶が様々な展覧会で第一回勧業博覧会にて花紋賞牌などすばらしい賞を受賞し評価され、その名を全国に広めました。

大正時代に入ると販路を東北から全国に広め最盛期を迎えました 

昭和に入ると世界大恐慌や戦争のため、生産が一時制限されるなどの大きな打撃を受けました。
戦後、南部鉄瓶は生活スタイルが変化したために生活必需品としての地位を失っていきましたが、かわってすき焼き鍋や灰皿などのテーブルウェア が「南部鉄器」というブランド名で全国に普及していきました。

また、旧伊達藩にあった水沢鋳物も昭和33年から南部鉄器のブランドを使うことが認められました。
昭和50年、国の伝統的工芸品として第一号指定を受けました

今日、鉄瓶は鉄分を補給し、おいしい日本茶や紅茶を入れる道具として、国内だけでなく欧米へも輸出されています。
また、街灯やサインなどのストリートファニチャーとして美しい街づくりに貢献したり、生活に潤いを与えてくれる伝統工芸品としての価値が見直されています。

南部鉄器はその優れた品質により多くの人に親しまれ、日本の代表的伝統工芸品として揺るぎない地位とブランドを築いてきました。
その逸品の数々は日本的伝統美のひとつの到達として近年さらに評価を高めています。

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    ーーHP「南部鉄器協同組合」、HP「盛岡バーチャル博物館」より転載ーー


紺屋町の大正時代の写真です。
左側、社長さんが立っているのが「盛岡電気会社」で、現在の「東北電力」

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したがって、「茣蓙九」や「釜定」は、この隣になるということになります。
遠くに見える塔は「紺屋町番屋」でしょうか・・・



                      (紺屋町 2013年10月15日)


さくらが咲きました!

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ここは、近所のささやかなmyお花見スポット。
我が里でも、いち早く咲いて楽しませてくれます。


今年は気温が低かったので、開花が遅れるんでは?と心配しましたが
無事、例年通りに咲きました。

まだ五分咲きという感じです。来週は満開に・・・


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昨日は風が強かったので、昼頃には富士山に雲がかかってしまいました。


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今年もありがとう~~

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                       (2014/3/21 撮影)


豆とソーセージのスープ

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3月23日(日)

三連休も最後ですね。この後は、GWまで働くのみ・・・?

私は、ノンビリTV三昧です。
普段、ドラマは観ないですが、昨夜の「LEADERS」は面白かった。

トヨタの国産車開発のストーリーなんですが、
近代建築物の背景を調べていると、財閥と銀行とお役所の裏話をよく眼にします。
そういう意味でも、融資と日銀の関係など、興味深かった。

最近、2夜連続ドラマが多いようですが、「宮本武蔵」より、私的にはこちらです。



消費税値上げまで、あと1週間ですねぇ
TVでは、朝な夕なに、ご親切に「今買うと損するモノ得するモノ」をどこの局でもやってます。
あれで、気分が焦る人も、結構いるんじゃないか??

デパートでは、箱買いの争奪戦で、TVのこちら側では「あんなモノ要るか~?!」と観てますけど・・・

駆け込み購入って、結局ムダになる事が多そうな気がしませんか??

私は、冷蔵庫とエアコンを、故障のため買い換えたばかりなので、もうムリ!(*^^)


しかし、東日本大震災の後もしかりで、主婦って危機感をあおられると、
どうしてトイレットペーパーやティッシュの買いだめに奔るんでしょうかね~

ウチの所は生産地なんで、いつもあるし、安いから買いだめする気にならない。

買って頂くのは結構ですが、せいぜい1ロール20円前後でしょ?
値上がりしたって、×1.03=20.6円じゃないですか、保管スペースが勿体ないだけ~


私が、まとまってお金を使うのは旅行の時だけですが、
交通費は仕方が無いとしても、
3%税金がUPするなら、使う額を3%下げるだけですよ。 バッサリ!(-_-メ)


さて、最近の話題はこれくらいにして・・・

豆は、食物繊維が多いから、食べたい食品のひとつですが、
どうも、甘い煮豆は苦手なので、なるべくそうではない料理を探しています。

これは、いろいろ豆を入れたスープです。
味付けは、スープの素と塩コショウですが、金時豆が甘い!
豆もいろんな持ち味があったんだなと、思いしりました。

ニンニクを効かせても美味しいかと・・・


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●材料
水煮大豆: 100g
金時豆 (乾) 250g
いんげん豆 (乾) 250g
たまねぎ: 1コ(200g)
ウインナソーセージ :300g
ベーコン : 100g
固形スープの素: 4コ
パセリ: 適宜
塩・こしょう:適量

●作り方
1、 乾燥豆は洗ってたっぷりの水につけ、一晩おく。
  水煮大豆は、ぬるま湯でサッと洗う。
2、,鬚弔韻真紊瓦搬腓覆戮貌譟中火にかけて沸騰させ、ざるにあけて水をかける。
  大豆以外の豆をなべに戻し、再びたっぷりの水(約15カップ)を加えて中火にかけ、
  煮立ったら弱火にして、豆が柔らかくなるまで約30分間煮る。
  豆の腹が少し割れるくらい、柔らかくゆでる。

3、 たまねぎはみじん切りにし、ウインナソーセージは5mm厚さの輪切り、
  ベーコンは3mm幅に切る。
4、△里覆戮豊と水煮大豆を加え、固形スープの素も加え、中火で煮る。
  再び煮立ったらアクを取り、ふたをしてとろ火にする。
  時々混ぜながら、豆がつぶれて全体にとろみがつくまで30分間くらい煮込む。
5、最後に塩、こしょうで味を調える。器に盛り、パセリのみじん切りを散らす。

盛岡財閥と銀行

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φ(.. )

盛岡市に、素晴らしい近代建築である、3つの銀行建築が残っています。
その創業背景を調べてみると、実に面白い歴史が浮き彫りになってきました。

藩政時代の盛岡に、現在の滋賀県高島市から近江商人が渡ってきて、盛岡藩の財政を支えた事は以前記事にしましたが、
明治期に入ると、その勢力はさらに大きくなっていきます。


初代小野善助に始まる豪商「井筒屋」グループは明治期には。小野組(おのぐみ)と呼ばれた。

廃藩置県以後、三井・島田・小野三家の為替方は府県方と称し、3府72県に支店・出張所を置き公金の収支に従事していた。

小野組は為替方であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を手がけ、築地生糸所を創立。
その後も前橋製糸場をはじめ、長野県各地、福島県二本松などに製糸場を経営。
釜石、阿仁など東北各地の鉱山経営に着手した。

岩手県では創県以来、政府の公認を得て、年貢金及び官金の為替方を東京田所町の小野善助の出店である盛岡呉服町の小野善十郎に取扱わしていた。

明治7年(1874)政府の為替方に対する方針が、担保額の引き上げなどの一方的な金融政策の急変によって、小野組・小野善助は県御用達免除を出願、同27日には盛岡の小野善十郎も同様出願して、資金全部を大蔵省に提出して精算・処分を完了し、県為替方を閉店した。

岩手では明治7年(1874)の小野組破産以来、為替方を失っていました。

このため政府は明治11年(1878)に第一国立銀行に盛岡支店を開かせ、国庫金と公金を取り扱わせます。

同年、一関では旧一関藩士の出資によって「第八十八銀行」が創設。
盛岡でも旧盛岡藩士の出資によって「第九十銀行」が創設されました。

しかしいずれも経営基盤が磐石とはいえず、明治27年(1894)第一銀行盛岡支店閉鎖に伴う公金取扱い業務譲渡に際しては、第九十銀行は支族重役と商人重役の対立によって開店休業状態、
第八十八銀行は堅実経営のものの規模が小さすぎるなどの理由によって、渋沢栄一が急遽、仙台の「第七十七銀行」に盛岡支店を開かせ、公金取扱い機関としました。

明治29年(1896)盛岡の財界人の尽力で「盛岡銀行」が開業、明治32年(1899)には公金取扱いも開始しました。
                ーー岩手県HP「いわての文化情報大事典」より転載ーー
*為替方(かわせかた)とは、明治初期の国庫出納機関。
 国庫に収納する金銭の鑑定・収入・逓送・支出の事務を取り扱った。


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※写真は「国立国会図書館・近代デジタルライブラリー」より転載


小野組の破産後、政府為替方として「国立第一銀行盛岡支店」が開かれると、支店長には渋沢栄一の従兄で義兄である尾高惇忠が配されたが、この銀行も破綻した。

代わって同じく渋沢が設立に関与した仙台の「国立第七十七銀行」を盛岡に斡旋。
岩手県の公金が隣県の宮城県を本拠にする銀行へ流れることに反対して、地元有力者によって商業銀行「盛岡銀行」が設立された。

明治中頃まで盛岡の財界を牛耳っていたのは、旧藩時代の御用達を勤め近江商人の流れを汲む「井弥」こと村井弥兵衛の一派で、村井の一族や、舟運を中心とする「北上運送会社」を設立した太田小二郎らとともに、財界に「北上派」と呼ばれる閥が形成されていた。

明治29年(1896)「北上派」と呼ばれる盛岡の財界人の尽力により創設された「盛岡銀行」は、初代頭取を村井弥兵衛とした。
創業時の資本金は70万円。明治32年(1899)岩手県の公金取扱いを開始した。


村井の死後、盛岡銀行頭取に就任したのは金田一勝定だった。
商家を継いだ勝定は、明治に入ってから主に貸金業を営んでいたが、日本鉄道会社によって東北本線が建設されるにあたり、これからの交通は鉄道であると見越して、豊富な資金力によって大量の鉄道株を買い進めていった。

明治39年(1906)に、日本鉄道会社を国が買収して東北本線を国有化することになると、大量の株式を保有していた金田一勝定は、一挙に莫大な利益を得る。

この資金を盛岡銀行に出資することで、財界における金田一の発言力はまたたく間に増大し、これ以降の金田一勝定は、金融・電気・鉄道を中心に数十の企業を束ね、岩手県内最大の財閥となっていく。

「井弥」などに代表される旧世代の財閥は、北上川の水運業との結びつきが強かったため、東北本線が盛岡まで開通した明治23年(1890)以降は、鉄道による大量輸送の流れから取り残されてしまった。

 これに対して金田一勝定は、「電気」と「鉄道」という近代産業の根幹を同族企業で押さえることで、盤石の土台を築いていった。

ちなみに、国語学者の金田一京助は勝定の甥になるそうです。
したがって、今に続く金田一ファミリーとは縁続きというワケです。


昭和3年(1928)施行の銀行法により、銀行資本の最低額を100万円としたことにより地方銀行の合同整理が促進され、岩手県内では11行から昭和4年(1929)には4行に再編成された。

昭和6年(1931)10月、青森県の「第五十九銀行(現・青森銀行)」で取付があり、その影響で三戸町と八戸市にあった盛岡銀行の支店も取付を受けた。

岩手県知事は、盛岡銀行、岩手銀行 (明治40年設立)、第九十銀行、盛岡貯蓄銀行、安田銀行支店等に対し、預金の制限払いを実施する事となり、盛岡、岩手、貯蓄の三銀行に合併し、県及び大蔵省の援助を得ることに協議を進めた。

しかし、第九十銀行は合併に賛成せず、盛岡、岩手両行の合併も不成立に終わる。
次に大蔵省から銀行の合併ではなく、新銀行設立案が提示され、昭和7年(1932)「岩手殖産銀行」の設立となった。

不信を買った盛岡・岩手の両行は、同年整理案を発表し整理の段階に入ろうとしたが、銀行は預金の引き出しにあい、運営が困難になる。
翌昭和8年(1933)6月に盛岡銀行は営業免許の取消しを受けて解消した。

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※図はHP「全国銀行協会」の銀行変遷史データベースを基に作成しました。(拡大可)

これは岩手県主要行が全滅した金融恐慌といえる事態だった。

昭和初期、盛岡銀行(盛銀)、旧岩手銀行(岩銀)、第九十銀行、盛岡貯蓄銀行、盛岡信託など岩手県主要行が全滅した。

首位・盛岡銀行頭取・金田一国士は地方財閥総帥で同系信託、貯銀、農銀等を抱え、典型的な機関銀行として同系電力、ガス、鉄道、観光、水産、倉庫、新聞等への大口投融資を行った。

二位の岩手銀行頭取・中村治兵衛は金田一との対抗意識が強く、岩銀の機関紙で盛銀側を攻撃する一方、企業支配のほか政界でも主導権を争うなど、両行対立から派生した各種抗争 は県政財界の紛糾を招いた。

主要行が非協調的で、過度の緊張関係にあった特異な環境下で、昭和6年 11月末に青森県諸行取付を契機に岩手県下でも金融恐慌が発生し、休業した主要三行を継承せず破綻整理させ、大蔵省・勧銀支援の下に別途、「(県営)岩手殖産銀行」を新設する独特の破綻処理策が採られた。

大蔵省が旧経営陣の影響力残存を極度に警戒、三行を切捨てた背景には内容劣悪に加え、経営者への極度の不信があったためと考えられる。

こうした両行経営者への抜き難い不信感を招いた原因として、
巨額の情実融資、迂回融資、粉飾決算、 検査回避のための行員名義借用、
当時「朦朧会社」と揶揄されたダミー会社の濫設、不良債権流動化を推進するための政界工作、
目に余る私利行為等、昨今の金融破綻でも散見された銀行経営者の倫理に反する背任的行為もあった。

ーー「金融恐慌と銀行重役陣の私財提供 -昭和6年末の岩手県の事例を中心に-」滋賀大学 小川 功著より抜粋ーー



明治時代になってからの、岩手県や盛岡市の金融界は紆余曲折、相当困難な時代を経てきているんですね・・・

細かいことにまで触れると、お互い機関新聞を通じて盛岡銀行と岩手銀行が対立し、誹謗中傷合戦をした事もあるそうですが、それもかえって良くない結果になった。

財界人の力が余りに強すぎるのも困った事ですかね。
また、藩政時代からの慣習や古いやり方というのも、邪魔をしたのかもしれません。

記事にしたのは昭和初期までですが、その後の戦後経済の不安定さも経験したでしょう。



岩手・盛岡 / 旧盛岡銀行本店(旧・岩手銀行中ノ橋支店)1・外観

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◎旧盛岡銀行アーカイヴ

●1994年撮影

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●国立国会図書館近代デジタルライブラリーほか
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国指定重要文化財(1994.12.27)
盛岡市指定保存建造物No.1

名称:岩手銀行(旧盛岡銀行)旧本店本館(いわてぎんこうきゅうほんてんほんかん)
明治44年(1911)竣工
設計:辰野葛西建築事務所(辰野金吾、葛西萬司)
施工:中沢善太郎(盛岡市)
構造・規模:煉瓦造、建築面積693屐二階建、銅板葺
外観材質:煉瓦タイルおよび花崗岩
面積延長:1020屐扮箴果明僉
用途:銀行店舗
建築依頼主:盛岡銀行
事業費:13万余円
明治洋風建築界の雄、辰野金吾博士と盛岡出身の葛西萬司氏によって主宰された辰野・葛西建築事務所の設計。

いわゆる「辰野式ルネッサンス」様式の一連の作品の典型の一つで、
煉瓦組積造、煉瓦タイル貼の外壁は、胴蛇腹と窓台の位置、および窓のアーチ部と楯窓上部に白色花崗岩でバンドあるいは彫刻のドレッシングを華やかに施し、横線を強調している。

マンサード型のスレート屋根に銅板押を施し、ドーマー窓とドームを屋根に配して飾り、凸凹の多い平面計画で建物に陰影をつけるなど、同様式の特徴を顕著に現している。

内部は1、2階吹抜の営業室を中心とし、2階事務所が営業室を見おろす吹抜に面した廻廊で結ばれている。
営業室上部を支える木製飾柱のコリント様式柱頭、天井石膏くり型、各室入口枠の彫刻などで、様式的には簡略化されているが、クラシカルな雰囲気を作り出している。

一方、階段回りと各階段室で灯数の異なる照明器具などにヨーロッパ近代デザインの風を採用し、当時の流行を物語っている。

構造的には、主要部三枚積、その他二枚積の煉瓦組積の外壁が独立しており、これに木造による横架材をもって上部床を支え、木造小屋組が外壁頂部に乗っている2階建一部3階の建物である。
また、小屋組には鉄骨アングルの方杖を煉瓦壁との接合部に使用している。

なお、工事監督技手丸山常弥、大工請負盛岡市中沢善太郎を、材料,職人共地元を主として施工したと当時の新聞は報じている。
建坪693平方m、延床面積1020平方mは、現在も変わっていない。(盛岡市)

中ノ橋を渡ってすぐの交差点に「旧盛岡銀行本店」の建物があります。
この建物は、盛岡のシンボルといって差し支えないでしょう。

この建物が建っている旧奥州街道沿いは、明治時代の盛岡においては金融街だったそうですが、その中でも、旧盛岡銀行が建つこの場所は一番目立つ、良い立地条件です。

藩政時代には、高札場である「札の辻」だった場所で、昔から市が開かれ、賑やかだったそうです。

「盛岡銀行」は、明治期の経済発展の頃、地元財界人の資本によって誕生した後、昭和8年(1933)経営に行き詰まって廃業した。

昭和11年(1936)に「岩手殖産銀行(現岩手銀行)」の本店として新しいスタートを切る。
イメージを一新するため、煉瓦の外壁を白く塗ってしまったそうです。
再び元の姿を取り戻す昭和33年(1958)まで「白い明治館」と呼ばれていたとか
チョッと想像しにくいというか、想像したくない・・・

昭和35年(1960)には「岩手銀行」に改称し、本店から中ノ橋支店となった。
盛岡市の保存建造物の指定を昭和52年(1977)に受け、
平成6年(1994)銀行の営業店舗としては全国初の国重要文化財としても指定された。

設計はあの辰野金吾で、東京駅に似た煉瓦に花崗岩ベルトのお馴染み辰野スタイル。
ドーマー窓やスレート葺きのドーム屋根、凹凸の多い複雑な外観は真骨頂ですね。
2階建てですが、搭屋部分だけは3階建てで、バルコニーも設けられています。


共同設計の葛西萬司(かさいまんじ)は地元・盛岡の出身です。

葛西萬司は、文久3年(1863)7月21日、盛岡上衆小路(現:盛岡市下ノ橋町)にて盛岡藩士鴨澤舎の次男として生まれた。
盛岡藩士であり、のちに岩手銀行頭取となる葛西重雄の養子となり、葛西姓を名乗る。

12歳で上京した後、慶応義塾・第一高等中学校をへて、明治23年(1890)「帝国大学工科大学造家学科」を卒業した。
同年、日本銀行建築科へ技師として就職。辰野金吾とともに建築の仕事に従事した。

明治36年(1903)8月、辰野とともに「辰野葛西建築事務所」を開設する。
当時、日本には建築事務所と言えるものはほとんどなく、大阪の「辰野片岡事務所」とともにその先駆けとなった。

同事務所が手掛けた建築には、商店や学校などがあり、件数も90件を越えている。
その中には、現在国指定重要文化財に指定されている「岩手銀行中ノ橋支店(旧:盛岡銀行本店)」も含まれている。

大正4年(1915)2月には,工学博士会の推薦により工学博士の学位を授けられた。
大正8年(1919)、ともに事務所を経営した恩師辰野金吾が亡くなるが、葛西は建築事務所を営みながら後進を育成した。

葛西の人柄は『寡言にして沈着、何を考えられても着実で、人に接するに親切丁寧であった』と言われており、怒りっぽかった辰野とは対称的であった。
辰野も葛西に対してだけは怒ることはできなかった。  (盛岡市)



老朽化に伴い、2012年8月をもって営業を終了。
2016年春の一般公開を目指して、調査と修復を行っているそうです。

訪問3回目にして、やっとまともな写真が撮れました。
最初はカメラの露出基盤が壊れたり、翌年には真逆光で真っ黒になったり・・・

そうそう、現在はこの周囲が無電柱化になっているようですね。
電線が邪魔しないなんて、建物が建った明治時代から初めてじゃないですか?

次回、チャンスがあったら、思いっきり内部の写真が撮れるかな~
やっぱり、営業中の銀行は入りにくいし、許可も難しい・・・

重要文化財なら、元の姿に再現してくれるハズ。期待してます!



                    (中ノ橋通一丁目 2013年10月15日)


岩手・盛岡 / 旧盛岡銀行本店(旧・岩手銀行中ノ橋支店)2・工事中内部

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「旧盛岡銀行」は、現在一般公開に向けて改修工事の真っ最中。
開けられた窓から、工事の様子を撮ってきました。

思った通り、内部は辰野金吾らしい、モダンデザインも取り入れているようです。

1階部分は営業室。
長いカウンターは大理石でしょうかね。
大きな吹き抜けとなっていて,巨大な付け柱に装飾が施され,天井には漆喰装飾を施すなど、豪華な内装です。
2階に廻り廊下(キャットウォーク)をめぐらしているのが見えます。

後から取り付けられた蛍光灯の数がハンパないですね。
この天井高では、相当薄暗かったんですね。

2階には、会頭室、応接室や会議室があるのでしょう。
きっと、とても豪華なのだと思われます。

『建物内装の木材は、そのほとんどに青森ヒバを利用しています。
国有林の払い下げ木材を活用したもので、建物完成から1年ほど前、青森から丸太のまま運び込まれ、現地で加工されたようです』

営業フロアの四方を支える4か所の円柱8本にも、ヒバが使われていますが、柱にあしらった葉アザミのモチーフはギリシャ建築の特徴とのこと。

館内のドアや壁面の内装部材、化粧材に使われる青森ヒバも当時のまま残っており、補修の手を加えていないのだとか。

細工に当たった職人の名前は明らかではありませんが、丸太の搬入からわずか1年で行われた仕事をみると、当然ながら地元の優秀な職人が数多く関わったことが推し量られます。

『3月の地震(東日本大震災)は、だいぶ揺れがありましたが、暖炉の灰が落ちてきたぐらいで建物全体の損傷はありませんでした。
設計や構造、そしてしっかりした技術のもとで造られた建物であることを改めて実感しています』

開放的な吹き抜けの天井は、屋根裏の梁が支えて吊り下げているとのこと。

建設当時のまま改修の手を加えていない、梁や筋交いがしっかりと巡らせてありましたが、東京駅改修工事が始まる前、関係者が参考のために、この構造を視察に訪れたそうです。

『盛岡市民にとって大切な財産である赤煉瓦の洋館を、今後永く残していくためにも、内部の修復や調査をしっかり行い、耐震補強を行っていく必要があります。

(中ノ橋支店)移転後の活用については、まだ明確ではありませんが、(銀行)営業施設でなくなれば、一般の人たちがこの場所を気軽に訪れることもできる。
さらに身近な存在になってほしいと思います』

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※ 写真・記事は、岩手銀行HP及び盛岡商工会議所広報誌「Sansa」より抜粋・注釈   文中『』書きは岩手銀行中ノ橋支店長(当時)柿木康孝氏の言葉です。


支店で働いていた人たちも、ここで働くことに誇りを持っていたでしょう
移転によって、この建物を離れることに、一抹の寂しさを憶えたかもしれない・・・

中ノ橋支店移転と工事中を知らせる看板に、宮沢賢治の詩が書かれてありました。


     弧光燈(アークライト)に めくるめき
     羽虫の群の あつまりつ
     川と銀行 木のみどり
     まちは しづかに たそがるる



                 (中ノ橋通り1丁目 2013年10月15日)


One Day Trip ~練馬区立美術館へ~

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3月27日(木)

この日は、関東地方に限って気温が低く、時折雨もパラつくという、あいにくの天気になりました。
でも、気晴らしのために、出かけてきました。

練馬区立美術館で開催されている「野口哲哉の武者分類(むしゃぶるい)図鑑」展を観に行って来ました。

電車やバスの交通機関を利用するのは、去年の10月以来、ナント半年ぶり・・・

横浜から湘南新宿ラインで池袋へ、西武池袋線で「中村橋」下車。
駅から歩いて数分のところに美術館があります。

1Fが図書館、2Fが美術館という複合施設です。
入館料は500円という安さ! 地方ではあり得ないかも・・・



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「日曜美術館」などのTV番組で紹介されたので、ご存じの人も多いでしょう。
私も、それを観て興味を覚えました。

甲冑武士をモチーフに、フィギュアや絵画などを展示。
作者の野口さんは、まだ30代の若さですが、ちゃんと有職故実や史実を研究しているそうです。


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彼の今までの集大成といえる展覧会で、全作品をはじめ、
本物の甲冑や兜、屏風も展示されおり、彼が影響を受けたという、明治か大正の頃の武者絵画家の屏風や、大正時代の甲冑図絵なども展示されて、とても面白かったです。

特に面白いのが、時代をミックスしているところです。
甲冑にスニーカーを履いてバッグを斜めがけしたり、自転車に乗ったり、
兜にプロペラを着けてホバリングしたりと、その発想に思わずクスッとさせられます。

シャネルのマークの鎧を身にまとった「紗練(しゃねる)侍」など、あたかも本当にあったような解説が添えられていて、洒落に満ちています。

時代を付ける、古びた感じを出す技法は、お見事です。
まだ若いので、これからどんな発想を繰り出すのか、楽しみです。

フィギュア好きな若者や、歴女はもちろん、歴史に詳しいお父さん達も楽しめるのではないですかね~

駅の近くを歩いていたら、こんな石仏が祀られてあったので、思わずパチリ


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午後は、横浜で、神奈川県に住む友人と会って、カフェでコーヒーブレイク。
コーヒーとケーキで3時間近くお喋りしましたかね~

シウマイももちろん買って・・・

楽しい一日になりました。 お出かけは、やっぱりタノシイ~~



岩手・盛岡 / 旧第九十銀行(現「もりおか啄木・賢治青春館 」)・1 外観

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館内にあった模型
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◎九十銀行アーカイヴ

●1994年撮影(「岩手リースデータサービス」時代)
 塔の金属装飾がなく、九十銀行の看板が外されている

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●国立国会図書館近代デジタルライブラリーほかより
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国指定重要文化財(2004.07.06)
盛岡市指定保存建造物

名称:旧第九十銀行本店本館(だいきゅうじゅうぎんこう ほんてんほんかん)
明治43年(1910)竣工
設計:横濱勉
施工:不詳
構造・規模:煉瓦造、建築面積264.61屐■桶建、一部地下1階、
      スレート及び銅板葺、煉瓦塀附属
外観材質:化粧タイルおよび花崗岩
用途:銀行店舗
建築依頼主:第九十銀行
事業費:6万余円

 旧第九十銀行本店本館は,盛岡市中心部にあり,明治41年起工,同43年12月に完成した。設計者は盛岡出身の横浜勉である。

 煉瓦造2階建、一部地下1階で、南棟の東には煉瓦造の脇塀がつく。
一階が営業室と客溜、金庫室、応接室、頭取室。二階が総会室、重役室などからなる。

 外観は,ロマネスク・リヴァイヴァル様式により銀行建築としての重厚性を表しつつ、室内ではゼツェッシオンの平明かつ簡潔な意匠を創り出している。

 旧第九十銀行本店本館は、全体として装飾要素は抑制され、様式建築からの離脱の過程を示す作品であり、19世紀末の欧州の建築運動をいち早く反映させた遺構として、我が国近代建築史上、重要である。

また、二階床組のトラス梁や二階床換気口の開閉機構など、構造技法等にも見るべきものがある。

 当時、若き司法省技師であった盛岡出身の横浜勉の設計で、1908年3月15日起工,1910年12月11日竣工。

 全体に簡略された折衷様式であるが、日本の洋風建築遺構には数少ないロマネスク風の外観を呈している。
開口部の石型アーチ、建物隅部に突出したロケット、荒削りなコーナーストーン、破風に取り付いた付柱風の石彫飾などで、その様式的な雰囲気を創り出し、概して簡素なうちに荘重さを表現している。

 2階ホールなどに見るセセッション風の空間、自由な発想による石彫飾の形、外壁に貼られた化粧タイルの黄褐色のモダンな色調などは、様式の簡略化と共に、この建物を明治末期から大正期にかけて日本を覆った近代デザインの中から生まれた作品として特徴づけているようである。

構造的には、煉瓦組積造の外壁が独立しており、これに木造の横架材をもって上階床を支え、木造小屋組が外壁頂部に乗っている。

なお『工事監督久田喜一、工事係新沼源之進、石材・煉瓦共に盛岡近郊産、化粧タイルは東京産であった』と、当時の新聞は報じている。

建坪257.85平方m、延床面積515.70平方mの二階建。
同時に木造平屋附属建物82.5平方mが竣工しているが、現在これは3階となっている。
屋根は当初よりスレート葺であったが、1975年に現状の鉄板葺に改められた。(盛岡市)

盛岡市に残る銀行建築、もうひとつの重要文化財。

「旧盛岡銀行」と同じ頃に建てられ、中ノ橋通りに、すぐ近くに建っていますが、
「旧盛岡銀行」が、地元盛岡の財界人によって設立されたなら、「旧九十銀行」は旧盛岡藩士族の秩録公債(ちつろくこうさい=家禄などを自主的に奉還した者に起業資金を与える目的で起こされた公債)の出資で設立。

盛銀の建物が赤煉瓦の古典調なら、こちらはドイツ風モダン建築。

なにからなにまで対照的な2行です。
ただ、どちらも盛岡出身の建築家が関わっていることが共通点でしょうか?

穿った見方をすれば、あっちが地元出身の葛西なら、こっちだって地元の横濱だ!と負けん気があったかも・・・

想像ではなく、当時の盛岡の金融界ではそれくらいの勢いがあったようです。

しかし、哀しいかな武士の商法で、九十銀行の大半の株は市内豪商のものとなってしまったようで、昭和初期の東北金融恐慌で昭和7年廃業。
建物は陸中銀行、岩手銀行、岩手リースデータサービスの所有を経て、現在に至る。

建物は小規模ながら、重量感のある堂々としたものです。
砕いた石をむき出しにしていて、野趣も感じます。


「第九十銀行」は、明治11年(1878)地元資本による盛岡初の銀行として、旧十三日町に誕生しました。
南部藩士の株主94名、資本金10万円での設立でした。

 明治43年(1910)12月、「第九十銀行本店本館(現:もりおか啄木・賢治青春館)」が旧呉服町の現在地に建てられます。
 設計は盛岡出身の若き設計技師、横濱勉(よこはまつとむ1878-1960)です。

東京駅や日本銀行を設計した、西洋建築の第一人者である辰野金吾と、地元出身の葛西萬治設計による、赤レンガの「盛岡銀行(岩手銀行中ノ橋支店)」よりも、第九十銀行は約5ヶ月早く竣工しています。

 中津川のたもとにそびえ立ち、明治の洋風建築を象徴し威風堂々たる構えを見せてくれる盛岡銀行に対し、第九十銀行は、19世紀末の大正期の黎明を告げ新たな息吹を感じさせてくれる、時代を先取りしたスタイルです。

 設計者の横濱勉は、啄木や賢治と同じ盛岡中学出身、東京帝国大学建築学科を卒業。
東京市の建築技師を経て、司法省の技師となりました。 
彼は、その若い感性を最大限に活かし、第九十銀行の外観と営業室をロマネスクリバイバル式、その他の諸室をセセッション式として、当時の欧州の自由な建築運動を、いち早くこの建物に反映させています。

それは、ドイツ風ロマネスク様式(11-12世紀)を汲んで、各所にちりばめられた意匠が伝えてくれるものです。
 スレートと銅板葺きのドーマー窓(換気口)を持ち、四方から中央の避雷針に向かって寄せた尖り屋根。
釉薬を掛けて艶やかに焼き上げられた、黄褐色の化粧煉瓦。 
1階正面や2階窓のアーチ・コーナーに配された、重厚さと斬新さを漂わす割肌の盛岡産花崗岩。
正面から見ると、アシンメトリーに配置され、縦のシンプルなラインが際立つ鎧戸。

 その佇まいは、さながら上品さが匂い立つ新しい時代の淑女のよう。若き横濱勉が情熱を傾け郷里盛岡に遺した、現存する唯一の作品です。

 後年、所有者の変遷に伴いながら金融企業として営業を行ってきたものの、平成4年より閉館。
平成11年、盛岡市が「盛岡快適観光空間整備事業」の対象に位置付けて保存活用策を探り、改修工事を経て、平成14年11月に、「もりおか啄木・賢治青春館」の誕生となりました。
 平成16年7月には、明治期の銀行建築でありながら大正・昭和初期の特徴を示す、先駆的で独特なデザインの価値が認められ、国の重要文化財に指定されました。
 これは県内3番目の近代建築物の重文指定に当るものでした。

              ーー「もりおか啄木・賢治青春館」HPより転載ーー



                  (中ノ橋通一丁目 2013年10月15日)


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