Quantcast
Channel: じゃらんカメラ
Viewing all 1617 articles
Browse latest View live

神奈川・横浜 / 三渓園の古建築・8 春草廬

$
0
0


イメージ 1


イメージ 2


イメージ 3




イメージ 4




イメージ 5


イメージ 6


国指定重要文化財(1931.12.14)
名称:春草廬(しゅんそうろ)
江戸前期(1615-1660)建築
構造:三畳台目茶室、一重、切妻造、こけら葺

春草廬【重要文化財】桃山時代建築 <貸出施設>

三畳台目(さんじょうだいめ)の小間茶室は、織田有楽斎の作品と伝えられています。

◎ひとこと&みどころ
 春草廬は、茶室内に九つの窓があることから、かつて「九窓亭」と呼ばれていました。 多くの窓を持つもので、華やかな茶室です。

イメージ 7イメージ 8
イメージ 9
        ーー三渓園HPより転載。写真は一部「文化遺産オンライン」からーー

大正7年(1918)には「春草廬」が入手される。
春草廬とは、元々「臨春閣」が大阪にあって「八州軒」と呼ばれていたときに、敷地内にあった茶亭の名称だといわれる。
しかし、この建物は「三室戸寺金蔵院」の「月華殿」付属の「九窓亭」という建物を改称したものである。

「春草廬」は、大正11年(1922)に園内に再建されたと思われる。
三畳台目の小さな茶室で、三渓園に移築された際に、本屋と広間が付加された。

「月華殿」と共に、京都宇治にある三室戸寺金蔵院にあったもので、当時は「九窓亭」と呼ばれていた。

茶室は、床の脇にある窓と合わせると、旧名どおり九つもの窓を持ち、小さな空間にいくつもの窓が美しく構成されている。

三渓は新しく付加した広間の屋根を、茶室と同じこけら葺の切り妻屋根にして、茶室と一体的な建物となるよう苦心している。

元来この建物は「臨春閣」の裏庭に「白雲邸」と接続して建てられていたが、昭和18年(1943)第二次世界大戦の戦火をおそれて、一時解体され、戦後は「蓮華院」跡に再築されて現在に至る。
              (「三溪園100周年原三溪の描いた風景」より引用)


左側の茶室部分だけが重要文化財。
右側のガラス戸のある広間と待合は後年つけ足されたものです。

解説の初めの部分を要約すると、移築当初は「臨春閣」の近くに設置したから、昔あった茶室にちなんで、違うところの建物だけど、あえて改名されたってワケですね。

織田有楽斎(おだ うらくさい)の茶室が、横浜にあることが驚異!

九つも窓がある茶亭なんて、見たことがありません。
想像以上に、複雑な陽が入ってきそうな気がする・・・
これは、中に入って、一日じっくり感じてみたいですね~~

戦火に備えて一時解体するなんて、この建物をとても大切に思っていたのでしょうね。



                  (中区本牧三之谷5 2013年5月27日)



神奈川・横浜 / 三渓園の古建築・9 天授院(内苑)

$
0
0


イメージ 1


イメージ 2


イメージ 3


イメージ 4


イメージ 5


イメージ 6


イメージ 7


国指定重要文化財(1960.06.09)

名称:天授院(てんじゅいん)
慶安4年(1651)建築
構造:桁行四間、梁間三間、一重、寄棟造、妻入、茅葺
もと鎌倉心平寺地蔵堂と推定される。
大正二年ごろ三溪園内に移された。室町時代末期の唐様の堂。

もとは、建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂で、大正5年(1916)に移築されました。 
建築様式は禅宗様(ぜんしゅうよう)を主体としています。
◎ひとこと&みどころ
 三溪園では、原家の持仏堂とされました。

イメージ 8
イメージ 9
                     ーー三渓園HPより転載ーー

鎌倉の建長寺近くに所在した「心平寺」の地蔵堂であったと考えられる。

全体に室町時代の建築様式だが、修理の際に慶安4年(1651)の墨書銘が確認され、江戸時代に建てられたものであることが明らかになった。

もとは木部が総黒漆塗りで、現在は一部にその色の跡が残っている。
大正5年(1916)に園内に建てられ、「天授院」と名付けられた。

天授院とは、もともと善三郎(三渓の妻の祖父)の法号で、内苑山上、原家の持仏堂として先代が祀られていた。
              (「三溪園100周年原三溪の描いた風景」より引用)


鎌倉・建長寺のある谷は、もとは処刑場で地獄谷と呼ばれ、建長寺が建立されるまでは、その鎮魂のために創建された「心平寺」があった。
心平寺は、建長元年(1249)の創建とされ、地獄谷で処刑された者の死後の救済のため地蔵菩薩を本尊としていた。

その後、地獄谷には北条時頼によって「建長寺」が創建される。
のちに建長寺の開山に迎えられる蘭渓道隆も、常楽寺からこの地に移った。

建長寺の本尊が地蔵菩薩であるのは、心平寺の本尊が地蔵菩薩であったからだといわれているそうです。

まさに、建長寺の大元になったキモの建物が、ここにあるわけなんですね~

三渓が各地で選んだ古建築は、歴史的にも凄い価値があって、
これは単なる普請道楽とは全く違う、3Dの歴史資料なんだと改めて思います。


三渓園で日本の伝統建築を見ていると、周囲の風景と同化した姿をワイドで撮りたくなります。
一方、洋風建築は、近寄ってズームで細部の意匠を撮りたくなるんですが・・・

この違いは、そもそも建築に対する考え方や建て方が、和洋で正反対な事に通じているのかもしれません。




                  (中区本牧三之谷 2013年5月27日)


神奈川・横浜 / 三渓園の古建築・10 横笛庵(外苑)

$
0
0


イメージ 1


イメージ 2


イメージ 3


イメージ 4


イメージ 5


イメージ 6


イメージ 7


イメージ 8


イメージ 9


イメージ 10


イメージ 11


横笛庵(よこぶえあん)
建築年不明 <貸出施設>
草庵風の茶亭で、素朴ながら風趣のある建物です。 
建物内に横笛の像が安置されていたことから「横笛庵」と称されています。
 横笛の像は、戦争の際に失われました。
◎ひとこと&みどころ
 横笛は、高倉天皇の中宮・建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性です。 

横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、「縁結びの像」として知られていました。
(二人の悲恋話については、高山樗牛による「滝口入道」という小説が有名です。)

イメージ 12
イメージ 13
                     ーー三渓園HPより転載ーー

三渓園の外苑に入って来ました。
池を挟んで、内苑と外苑に分けられています。

内苑は主に原家のプライベート空間ですが、外苑は一般来訪者が自由に楽しめる場所だったようです。
雑木林や梅林、小川が流れるなど、いい散歩道です。
こちらには、三渓が亡くなった後に移築された建物などもあります。


「横笛庵」は鄙びた趣の草庵で良い雰囲気ですが、建物についての詳しいことは、
いろいろと検索しましたが、全く分かりません。

移築なのか、新築なのか?
時期は三渓の生前なのか、死去した後なのか?
       (戦争中に像が焼失したとすると生前か??)

横笛像があるから「横笛庵」と命名したのは分かるとして、その像が三渓園に来ていた由来など・・・

ただ、横笛の悲恋と、この建物の関連性は、全く無いことだけは分かりましたよ(^^)
嵯峨野に行ったら「滝口寺」に行ってみようという気にはさせてもらいました。

疑問が解明されないと、気持ちが悪いですが、まぁ仕方がありません・・・


イメージ 14


イメージ 15



◎「『平家物語』巻十・横笛 及び「滝口入道」のあらすじ

滝口入道は、もと平重盛(平清盛の嫡男)の侍で、その名を斎藤滝口時頼といった。
彼は、清盛の西八条殿での花見の宴において、建礼門院付きの女官、横笛の舞姿を見て、恋しく思うようになり恋文を送るようになった。

すると時頼の父がこの事を聞いて「おまえは名門の出にして、将来は平家一門に入る身上でありながら、なぜあんな横笛ごときを思いそめるのか」ときびしく叱ったため、時頼は、主君(小松内大臣重盛)の信頼に背いて恋に迷う己れを自責したが、「これこそ仏道に入らしめる尊い手引である」として、嵯峨の往生院で出家してしまう。

 横笛が、都で滝口入道が出家したということを伝え聞いて恨めしく思い、自分の心を打ち明けたいと、都を出てあちらこちらと尋ねて嵯峨の往生院へやって来た時は、もう日も暮れた夕闇の中だった。

住み荒したる僧坊に念誦の声がしたので、滝口入道の声と開きすまして真の心をうちあけたく、女子の身でやってきたことを言う。
滝口入道は、胸がどきどきして、驚き、襖の隙間から覗いて横笛をみると、裾は露でぬれ、袖は涙でぬれ、痩せこけた顔つきは、本当に尋ねかねた様子であった。

ところが、滝口入道は、同宿の僧を遣して「全くここにはそのような人は居りません。お門違いではないでしょうか。」と言わせた。
 横笛は泣く泣く帰るわけであるが、真の心を伝えたく、近くにあった石に歌を書いて帰った。

 「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に 我れを導け」

 滝口入道は、未練が残ったまま別れた女性に住いを見つけられたからには、修行の妨げになると思い高野山に移った。
横笛もその後すぐ法華寺で尼になったと聞いたので滝口入道は一首の歌を横笛に送った。

 「そるまでは 恨みしかとも梓弓 まことの道に入るぞ嬉しき」
横笛は返歌をした。
 「そるとても 何か恨みむ梓弓 引きとどむべき心ならねば」

 横笛はまもなく法華寺で死んだという。
滝口入道はこの事を伝え聞いてますます仏道修行をして高野の聖といわれる高僧になったという。

うむ、悲恋には違いないが、像を造れるくらいラブレターを送った程好きだったなら、初志貫徹してほしいし、お父さんが怒るほど、横笛は卑しい身分でもなさそうですけど。

お父さんも、息子を叱ったら平家を継ぐどころかお坊さんになってしまって、本末転倒じゃないですか・・・どう感じたんでしょうねぇ?

「あの時の気持ち、ホントはどうだったのよ」と聴きに行きたくなる横笛の気持ち、分かりますね。
仏門に入った後の、時頼の意志の硬さも尋常じゃないですね。
もはや僧侶になった身、今さら・・って感じでしょうか?

中世の恋愛事情は、現代人には理解できないな~


横笛の像は、奈良の「法華寺」には残っているそうです。(いくつ造ったの?)

法華寺は創建当初(天平時代)から1250年以上続くお寺。
光明皇后(こうみょうこうごう=聖武天皇の妻)は、父親の藤原不比等(ふじわらのふひと)没後、不比等の屋敷を皇后宮とし、実際に住まいとした。

その後、「総国分尼寺 法華滅罪之寺」とした。
引き続き、住まいとしたので、「法華寺御所」とも呼ばれた。
地下遺構に皇后宮の跡が発掘されたが、現在は、埋め戻されている。

法華寺の「横笛堂」は、横笛が尼となった後に住んだとされる建物。
以前はここに、横笛が時頼から送られた手紙の反故で、自らの姿を作ったという張り子の横笛像(高さ約30cm)が安置されていたが、現在は本堂に移され安置されているとか。


イメージ 16




                 (中区本牧三之谷 2013年5月27日)


神奈川・横浜 / 三渓園の古建築・11 旧東慶寺仏殿(外苑)

$
0
0


イメージ 1


イメージ 2


イメージ 3


イメージ 4


イメージ 5

国指定重要文化財(1931.12.14)

名称:旧東慶寺仏殿(とうけいじ ぶつでん)
寛永11年(1634)建築
構造:桁行三間、梁間三間、一重もこし付、寄棟造、茅葺、もこしこけら葺

旧東慶寺仏殿【重要文化財】
江戸時代初期
鎌倉の東慶寺にあった仏殿で、明治40年(1907)に移築されました。 
禅宗様(ぜんしゅうよう)の特色を色濃く残す数少ない建物です。

イメージ 6
イメージ 7
                     ーー三渓園HPより転載ーー

もと鎌倉市山之内字松岡の「東慶寺」にあった仏殿。

東慶寺といえば、離縁したい女性の駆込寺、縁切寺だったとして有名ですよね。

投げた草履の片方でも山門の石段に掛かれば、入ったと見なされるというのが、
追いかけてくる婚家から逃れたいと必死だった女性と、救いたいお寺の想いを表しているようです。

東慶寺は弘安8年(1285)北条時宗の妻・覚山尼が創建した。

夫北条時宗が弘安7年(1284)4月4日に34歳で亡くなる直前、夫婦はそろって出家し、夫人は無学祖元より潮音院殿覚山志道と安名された。
出家した覚山志道尼は、時宗と死別の翌弘安8年(1285)に東慶寺を開創。

仏殿の建立年代については、東慶寺は永正6年(1509)に火災に遭い、その直後再興されたことから、建築様式などで、永正の火災後に再建されたものと推定されるそうです。

当初の屋根は入母屋造だったとか。


東慶寺は今から約720年前、弘安8年(1285)に北条時宗夫人の覚山志道尼が開創いたしました。
 
封建時代、女性の側から離婚できなかった時代に、当寺に駆け込めば離縁できる女人救済の寺として明治に至るまで600年の永きにわたり、縁切りの寺法を引き継いできました。

イメージ 8
明治4年(1871)には縁切りの寺法は廃止となり、尼寺の歴史も明治35年(1902)に幕を閉じました。 明治38年(1905)に釈宗演禅師が入寺、中興開山となり、新たに禅寺としての歩みを始めました。 師の高徳ゆえ、門下には居士、哲学者、政財界人多く、鈴木大拙もその一人でありました。 のちに裏山に「松ヶ岡文庫」を設立、世界的禅文化の発展の拠点ともなりました。 山号は松岡山、 寺号は詳しくは「東慶総持禅寺」。 総持とは陀羅尼(だらに)の訳語でもあるが、禅の初祖・達磨大師の弟子尼総持にちなんで禅の尼寺の意をふくめたのであろう。 後宇多天皇勅筆と伝える額にも、この寺名が書かれている。 「玉舟和尚鎌倉記」には、「山門あり、東慶総持禅寺の額あり」とある。 イメージ 9寛永年間には山門があって、この額はそこに掲げられていたのであろう。 建長興国禅寺、円覚興聖禅寺というように長い名は寺格の高さを示している。 昔はそれらの大寺とならんで禅宗五山派の独立の尼寺であったが、明治以来、臨済宗円覚寺派に属す。                               ーー東慶寺HPより転載ーー



                   (中区本牧三之谷 2013年5月27日)



神奈川・横浜 / 三渓園の古建築・12 旧矢箆原家住宅(外苑)

$
0
0


イメージ 1


イメージ 2


イメージ 3


イメージ 4


イメージ 5


イメージ 6


イメージ 7


イメージ 8


イメージ 9


●妻側

イメージ 10


イメージ 11


イメージ 12


イメージ 13


●げんかん(玄関)

イメージ 14


イメージ 15


イメージ 16


●生活空間

イメージ 17


イメージ 18


イメージ 19


イメージ 20


イメージ 21


イメージ 22


●接待空間(広間~奥座敷)

イメージ 23


イメージ 24


イメージ 25


イメージ 26


イメージ 27


イメージ 28


イメージ 29


国指定重要文化財(1956.06.28)

名称:旧矢篦原家住宅(きゅうやのはらけじゅうたく)
(旧所在 岐阜県大野郡荘川村)
江戸後期(1751ー1829)建築
構造・規模:桁行24.0m、梁間13.2m、一重三階、入母屋造、茅葺、
      北面及び東面庇付、こけら葺、南面水屋附属

説明:矢箆原氏宅で、莊川村民家の代表的なもの

旧矢箆原家住宅【重要文化財】
1750年頃(宝暦年間)

大きな茅葺屋根が印象的な合掌造という屋根に特徴がある構造の民家です。 

岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、昭和35年(1960)に移築されました。 

屋根の妻側にある火灯窓や扇が彫られた欄間は注目されます。
内部では、古い民具の展示もおこなっています。

◎ひとこと&みどころ
岩瀬(矢箆原)佐助は、飛騨三長者のひとりで、
飛騨地方の民謡に「宮で角助、平湯で与茂作、岩瀬佐助のまねならぬ」(普通の農民は3人の真似ができない)と歌われるほどでした。

イメージ 30
●接待空間(現地案内板より)  げんかん(玄関):上り口に板の間を設ける「式台玄関」          代官など身分が高い人を送迎するための出入り口で、普段は使われません。  ひろま(広間):玄関に対し、床の設えがあります。  なかのま(中の間):仏間の前堂も兼ねています。           海への思いを馳せた錨と櫂の欄間、           奥座敷側には扇をあしらった繊細な透かし彫りの欄間があります。  ぶつま(仏間):飛騨地方は浄土真宗が主です。         仏壇は寛政12年(1800)11月鷲見治郎右衛門によって作られたことが判っています  おくざしき(奥座敷):床・違い棚・書院が揃った格式ある部屋空間です。            平書院は赤漆塗の花頭形を模した凝った物です。            床柱は、正面にわざと節を出しています。            これは元禄時代、幕府に飛騨地方に桧の使用を禁止していたため、            禁令を逃れるために傷材をあえて用いていたのではないかと考えられます。  かみせっちん(上雪隠):代官など身分の高い人が使用するための便所  ざしき(座敷):代官が来た際、着替え室に利用されました。         奥に専用の風呂も付属しています。         隠居の部屋としても使われました。 ●生活空間(参考「HP飛騨茅葺き民家」)  ちょうだ:使用人の女性達の部屋  おいえ(おえ):家族が囲炉裏を囲んで食事をするなど、生活の中心となる部屋。  うすなわ(うすなか):唐臼と呼ばれる製粉器が置かれ、ソバなどを粉にする作業場。  みずや(みんじゃ):流しや風呂場のある水回りの部屋。            外には川からひいた池があった  うまや(馬屋)  だいどころ(台所)   *生活の場については、説明板を撮らなかったので、飛騨地方の名称を参考にしています。

外苑の奥まったところに、この庭園には不似合いなというか、趣の異なる合掌造りの民家が移築されています。
原三渓が亡くなった後の移築で、既に重要文化財として指定されていた物件だったという

これは、御母衣ダムに沈んだ荘川(しょうかわ)村にあった民家の一つで、
地元の有力者だった、矢箆原(やのはら)家の住居だそうです。

合掌造りの形が好きで、若いときから高山・下呂・白川・五箇山と観てきたし、
全く関係ない場所で、食事処に使われている悲しい姿も見ていたので・・・

「今さら・・・」と思いながら妻側に廻ってみたら、
                ナント珍しい、入母屋造りではありませんか!

切妻屋根はお馴染みですが、入母屋はグッと豪華で壮大なスケールに見えます。

これは荘川地方特有のスタイルなのだとか。荘川には行ってなかったっけ・・・
眼からウロコ・・・ そうだ、(いつか)荘川行こう と思わず決心した。

村の有力者の家だっただけに、左半分が役人などを迎えるための部屋になっています
高山代官ですかね・・・


ダムに消えた町や村って多いですが、故郷が消えるという事は寂しいものですよね。
地元の方の心情に想いを馳せると、言葉になりませんね。

役に立ったならまだしも、それが負担になったら、流した涙を反せ!と言いたくなる。

高度成長の波は、それに取り残されてきたはずの過疎の村に思わぬ形で影響を及ぼしてきた。
電気需要の拡大による大型ダムの着工である。
先祖代々生きてきた土地に、暮らし続けることさえできなくなったのである。

 そして土地とともに消える運命となった合掌造りの消失を惜しむ声がいつしかあがっていた。
 昭和31年(1956)大野郡白川村に「大牧ダム」が建設される際に、沈む地区で一番立派な家屋だった太田家から高山市に寄贈の申し入れがあった。

しかし市は移築資金を捻出できず、同家は「名古屋市東山植物園」に引き取られた。
他にも、奈良のあやめ池に移築されるなど、消失の危機をのがれた民家はいくつかあったが、いずれも県外への流出であった。

 さらに大牧ダムに続き「御母衣ダム」が、白川村から荘川村にかけて建設されることが決まった。
昭和32年(1957)着工の運びとなり、合掌造りの立ち並ぶ村落が、また沈んでいくことになった。

 御母衣ダムに沈む荘川村岩瀬に矢篦原家(やのはらけ・国重要文化財)があった。
宝暦年間当時、飛騨三長者のひとりと言われた岩瀬佐助の家だったもので、他の二人と比べて「岩瀬佐助のまねならず」と謳われたその財力を随所に見ることができる。

 この民俗資料として非常に重要な合掌造りを、高山市に移築することを市に進言した男がいた。
飛騨で最も古い窯元小糸焼を復興した陶工、長倉三朗である。
長倉はかねてより高山の祭屋台について研究著作し、高山市立郷土館の祭・陶器分野の資料委員を勤めてきた。
地域に根差した民俗文化に高い関心があったのである。

 しかし高山市は矢篦原家の移築を見送り、この合掌造りは横浜の三渓園に引き取られていった。
この出来事は、合掌造りがつぎつぎ飛騨から離散していくのを嘆く人々からの声が、ようやく高まるきっかけとなった。

イメージ 31
イメージ 32
そんなおり、元荘川村長・若山作右衛門から、御母衣ダムに沈む自家を高山市へ無償で譲渡したいと打診があった。 当時の高山市助役・政井捨吉が若山と懇意だったからである。 政井も合掌造りが飛騨から消えていくことに心を痛めていたひとりだった。  若山家は立派な合掌造りで、しかも入母屋合掌から切妻合掌へ移行した過程を示す最も古いものだったのである。 市民の声にも押され、高山市は若山家を移築することにした。 長倉三朗がその総責任者を依頼され、飛騨民俗村にかかわる始まりとなった。  移築場所は市の所有している西之一色町の土地に決定した。 ここは当初観光ホテルを建てる予定の土地だった。 これといった産業の少ない高山にとって、観光客の誘致は大きな願いだったのである。 当時の市長・日下部礼一には、若山家を単なる民俗遺産としてではなく、高山観光の目玉にとの思いもあった。 当時の高山は地財法の適用を受けなければならない貧しい自治体だったのである。                 ーー「飛騨の里誕生物語」より抜粋ーー

こうして「飛騨民俗館」が誕生し、「飛騨の里」へ繋がっていくことになるのです。

当時は、今ほど地方の伝統や建築が重要に思われていない時代だったし、むしろぶち壊して新しい物を構築しようという風潮だったから、苦労もされたでしょう・・・

こういう人たちの努力があって、現在の観光・高山市があるんですね。

現在は、地方限定が喜ばれている時代ですから、随分やり易いでしょうね。
それにブームや流行り廃りができるのも、また問題ではありますが・・・


少し話がそれましたが、荘川にも古建築を移築した公園があり、
ダムに沈む運命だった桜を地元民で助けた「荘川桜」もあります。

春、桜の咲く頃に行ってみたいですね・・・・


                  (中区本牧三之谷 2013年5月27日)


神奈川・横浜 / 三渓園の古建築・13 燈明寺(外苑)

$
0
0


●本堂

イメージ 1


イメージ 2


イメージ 3


イメージ 4


イメージ 5


イメージ 6

国指定重要文化財(1921.04.30)

名称:旧燈明寺本堂(とうみょうじ ほんどう)
室町前期(1333ー1392)建築
構造:桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、本瓦葺

旧燈明寺本堂【重要文化財】
室町時代建築
三重塔と同じ、京都燈明寺にあった建物です。 
三溪園には、昭和62年(1988)に5年がかりで移築・保存作業が行われ、中世密教寺院の姿がよみがえりました。

イメージ 7
                       ーー三渓園HPより転載ーー

●三重塔

イメージ 8


イメージ 9


イメージ 10


イメージ 11

国指定重要文化財(1931.12.14)

名称:旧燈明寺三重塔(とうみょうじ さんじゅうのとう)
室町前期(1333ー1392)建築
構造:三間三重塔婆、本瓦葺

旧燈明寺三重塔【重要文化財】
康正3年(1457)建築
園内のほぼ全域から、その姿を見ることができる三重塔は三溪園を象徴とする建物です。 三溪園には、大正3年(1914)に移築されました。

◎ひとこと&みどころ
燈明寺は江戸時代に宗派が変わった際に「東明寺」から「燈明寺」に改名されました。
瓦に東明寺と刻印されているのは、そのためです。

イメージ 12
                                             ーー三渓園HPより転載ーー


燈明寺(とうみょうじ)は、旧相楽郡加茂町、現在の京都府木津川市兎並(うなみ)にあった日蓮宗の寺院。

現在は廃寺同様だそうですが、同地には燈明寺の鎮守であった御霊神社(重要文化財)があり、宗教法人としては存続しているのだとか。

解体される前の本堂は、木鼻の装飾など江戸期の特徴をもつ華麗なものだったが、三渓園に移転してから、室町時代の様式に近づけるよう修正されたそうです。

三重塔の運搬には、当時は東海道線だった現在の御殿場線経由で貨車輸送を行ったが、カーブを曲がり切れず、仕方なく心柱を切断し、運搬後三渓園で繋ぎ直したそうです。


三重塔は、園内のどこからでも見える小高い丘の上に建っており、
              まさに三渓園のシンボルタワーといえるでしょう。


もう、もう・・・この辺りまで廻ってくると、眼も足も疲れちゃって、
本堂の中や、三重塔の近くまで上って見ようという気力も失せてしまいました。
                     敷地5万坪恐るべし・・・ (T.T)



◎燈明寺略歴(HP「日本の塔婆」ほかより)

天平7年(735)聖武天皇勅願により、行基の開創と伝える。
建武の兵乱(1336)で廃絶。

燈明寺本堂は室町期建立と推定される密教(天台)5間堂建築である。
康正年間(1455-1456)天台宗の僧・忍禅が復興し、本堂・三重塔を建立する。
その後、再び荒廃する。

寛文3年(1663)頃、日蓮宗に改宗の時、本國寺日弁によって大改造される。本堂・三重塔を修理。
寛保3年(1743)日賢が三重塔を修理。

明治34年(1901)川合芳次郎が、財政危機に陥っていた燈明寺を買収。
大正3年(1914)三重塔を横浜三渓園に移転。
大正10年(1921)特別保護建造物に指定される。

昭和23年(1948)本堂は移築されずに残っていたが、台風により大破し、解体修理に着手。
「屋根の形が大半なくなり、雨漏りで丸桁や組物も崩れ落ち、側廻りの壁や柱も倒壊箇所が見られ、外から内陣厨子が見通せるほどの惨状」という。
この時、再生可能木材はおよそ6割程度と見られる。

昭和57年(1982)横浜三渓園に本堂部材を移動.。その後三渓園で再建される。
これは三渓園には既に燈明寺三重塔が移築されていることと本堂所有者が横浜在住であったことによるという。

この本堂修復に当っての修理方針は材の腐朽が甚大であるため、極限に至るまで古材を修復・再利用することとなる。
そのため、埋木などを多用し、また合成樹脂を併用して形成・硬化するというものであった。
昭和61年(1986)工事完了、総費用4億8千万円。




               (中区本牧三之谷 2013年5月27日)


神奈川・横浜 / 三渓園の古建築・14 初音茶屋、天満宮(外苑)

$
0
0


●初音茶屋

イメージ 1

イメージ 2


◎初音茶屋と湯茶接待

 明治39年(1906)の開園当初から、初音茶屋では、いつでも麦茶や香煎を入れた白湯を飲む事ができました。
インドの詩聖と謳われるタゴールは、その著「日本紀行」の中で、「誰もがお茶をふるまわれる」と記しています。

また、大正4年(1915)に三渓園を訪れた芥川龍之介は、友人・原善一郎(三渓の長男)へ、次のような手紙を宛てています。

『僕は君の所へ去年の夏、矢代と二人でちょっとお庭を見にゆきました。
さうして四阿(あずまや)のやうな所で、田舎の女のやうな人の沸かしてくれるお湯をのみました。
どこをどうしてあすこまで辿りついたか、まるで覚えていません。

「ひとはかり うく香煎や 白湯の秋」
          即興のつもりで書きましたが、月並みなので弱りました』

この湯茶接待は、その後戦争などでいつからか途絶えてしまいました。

イメージ 3
                       ーー現地案内板よりーー

現在は、「観梅会」などイベントがある時に、中央の炉で古釜で沸かした温かい麦茶のサービスをする事があるそうです



●三渓園天満宮

イメージ 4


イメージ 5


イメージ 6


イメージ 7


イメージ 8


この天満宮は、江戸時代に京都北野天満宮から勧請した「間門(まかど)天神」がその前身です。
三渓園にほど近い間門の旧家・高梨家の先祖が、本牧の丘の中腹に建てたものです。
昭和51年1月25日に三溪園に遷座し、以後「三溪園天満宮」として来園者に親しまれています。

                        ーー三渓園HPより転載ーー

1月には初天神を開催。
神官による合格祈願が行われ、近隣の人が多く訪れるそうです。


三渓園は、原三渓の邸宅・庭園であると同時に、庶民が楽しんでいたという一面も持ち合わせていたのです。

当初は「入園御随意」の看板を掲げ、無料開放していたそうです。
現在は、入園料を払いますが、庭園の維持・管理のためには必要でしょうね。



                    (中区本牧三之谷 2013年5月27日)



新ごぼうのポタージュスープ

$
0
0
イメージ 1





4月28日(月)

このところ、午後から夕方にかけて曇ってきて、一日中晴れていることが少ない。
日中は、初夏のような気温で汗ばむくらいですが、夕方はチョッとひんやり・・・

GWに突入しましたが、いかがお過ごしでしょうか?

我が家の周囲でも、明け方から駐車場ではクルマのドアがバタバタと・・・
昼間は、普段の土日にも増してヒッソリしてました。

今年はカレンダーの並びが良くなくて、分散してしまうのだそうで??


私は、修繕工事終了からベランダの片付けに追われ、
引き続き、家の中をスッキリさせるべく、奮闘しております。

モノを保存する職業だった私としては、断捨離は忍びないですが、

使わないモノで家を狭くしているのが、アホらしくなって
思い切って、もう着なくなった服などから処分することに・・・

数年着てなかったアウトドアパンツのポケットから50円玉が出て来たり
行方不明だったスカーフがクローゼットの奥から発掘されたり、いいこともアリ

今、ゴミ袋3つくらいになりましたが、まだまだ甘そう・・・
今後も、ジミ~に、洋服の山と闘っているでしょう


さて、先日美術館のレストランで戴いたゴボウのスープを再現しました。

新ゴボウなので、水にさらすのは、サッとでいいでしょう
あまりさらしすぎると、風味が無くなりそう・・・



イメージ 2



ポタージュスープは具が変わろうとも、作り方は総て同じで簡単です。


材料
具になる野菜(コーン、じゃがいもなど、なんでも・・・)
玉ねぎ
コンソメキューブ
牛乳(豆乳でも)
バター
塩・コショウ
生クリーム

作り方
・玉ねぎをバターで炒める
・具材を入れ、しんなりするまでさらに炒める
・水とコンソメを入れ、柔らかくなるまで煮る。
・総てをフードプロセッサーですり潰す。
   (口触りを滑らかにしたいときは、ザルでこす)
・鍋に戻し、牛乳を加えて加熱する 塩、コショウで味を整える。
・仕上げに生クリームを加えてもOK


新ジャガを使って「鶏じゃが」

$
0
0
イメージ 1





4月29日(火 昭和の日)

春は、5日 2日のパターンを繰り返すそうなんですが、
まさに、きょうから谷間の雨になりそうですね・・・


ワンピースの裾上げを頼みに行ったら、ものすごく高かったのでビックリ!

手縫いでは、他の部分と雰囲気違っちゃうし、
              ミシンが壊れているので、仕方が無い・・・

言い出しちゃった手前、引っ込めるのもカッコ悪いし(男前でしょ?

YDK(やれば出来る子)としては、内心、悔しい気持ちが大きすぎ・・・

やっぱり、ミシンを買わないと、腕がもったいないな~(ホンマかいな



春の新物、きょうは新ジャガです。

いわば「鶏肉じゃが」ですが、
新ジャガの味を楽しみたいので、名前の通りシンプルに鶏肉とじゃがいもだけ
寂しいなと思ったら、玉ねぎ・ニンジンなど加えてください。



イメージ 2



新ジャガは皮を剥かなくても心配はないので、使いやすいですね。
あっさりめに作りましたが、手羽先・手羽元などでコッテリ煮てもいいね!

よく煮込んだ鶏肉は、翌日になっても固くならなくて美味しいですね。


◎材料
 鶏もも肉:1枚
 じゃがいも:小さいもの7,8コ
 出し汁:適量(ひたひたになるよう)
 醤油、酒、みりん=1:1:1(大さじ2くらい)
 炒め用油:サラダオイルでもごま油でもOK

◎作り方
 1, じゃがいもはタワシで皮がはがれないよう洗い、竹串で数カ所穴を開ける。
 2,鶏もも肉は食べやすい大きさに切っておく
 3,鶏肉を皮から炒め、焼き色がついたらじゃがいもを加えて、さらに炒め合わせる。
 4,出し汁、調味料を加えて中火で20分くらい、煮汁が少なくなるまで煮込む



生しらすのピザ

$
0
0
イメージ 1





4月30日(水)

はぁ~、4月も終わりですね。きょうは昨日よりも雨足が強くなってます。

Internet Explorerがヤバい事になっているようですね。
元々、Windowsってウィルスに弱いという定評でしたからね・・・
OSが新しくなっても、あまり改善されなかったんでしょうかね?

私も、Windowsを使っていた時がありましたが、
FirefoxかNetscapeで、エクスプローラは使ってませんでした。

企業などでエクスプローラを使っている所は多いかもしれませんね・・・
対策は当然取られるでしょうから、それまでは気がかりですね。


さて、駿河湾ではシラスと桜海老の春漁が行われています。
どちらも春・秋の年2回の漁で、それが始まると季節の変わり目を感じます。

このところは、今までになかった異変が起きています。

去年の秋漁では、潮の流れでシラスの群れが沿岸まで近寄ってこなかったとかで、不漁でした。
バスツアーで来たお客さんも、生しらすが食べられないと、ガッカリしてたそうです。

今年の春漁では、桜海老が不漁で、由比港では恒例のGWイベントも中止になったとか・・・
市場へ出す量で、いっぱいいっぱいという事らしいです。

日本海側で巨大深海魚が続々あがり、こちらでは小魚があがってこない・・・
海が大変なことになってそうな、イヤな感じがします。

シラスはこの春は大丈夫みたいですよ。

生しらすで、ピザを作りました。
これも、都会の某有名店で出しているというので、やってみました。

イメージ 2



       え?シラスが見えないって? ほら、ちゃんと入ってるよん

イメージ 3












市販のピザクラスト(クリスピータイプ)を使いました。
トマトの水煮(あらごし)をしき、シラス、ピーマン、プチトマトを並べ
ピザ用チーズを乗せ、220℃のオーブンで20分焼きました。

チーズとシラスとトマトって合性ピッタリ
生しらすが手に入らない地方もありますが、釜揚げでやってみてもいいでしょう
ちりめんになってしまうと、味わいが違うかも・・・


木の芽味噌

$
0
0
イメージ 1





5月1日(木)

2日間降った雨もあがり、今日からは夏のような気温になるそうです。
GWって、大体いつもTシャツ1枚で過ごせますからね・・・

雨後のタケノコって言うくらいで、これからあっちこっちで筍が採れますね。

木の芽の香りが、筍を引き立ててくれますよね~
私が鉢植えで栽培している葉山椒で、木の芽味噌を作りました。


香りがとてもいいです。 
もう少し葉を多くして、緑色になりたかったんですが、
なにしろ、工事のために、2か月間室内に置いていたもんで
          陽当たりが悪くて、今年は発育がイマイチ・・・


イメージ 2


作ろうと思い立った時にタケノコが無かったので、ゆでじゃがにかけています。

豆腐や生麩の田楽にもいいだろうな・・・充分育ったらやってみたいです。


調理といっても、すり鉢でするだけなので簡単です。
分量のお手本は以下の通り

木の芽:20枚程度
☆調味料
 白みそ:100g
 砂糖:大さじ3
 酒:大さじ2
 みりん:大さじ1

1,山椒の葉をすり鉢でする。☆調味料はよく混ぜ合わせておく。
2,混ぜ合わせた調味料を少しづつ加え、さらにすって完成。


クロワッサンドーナツにはまっています

$
0
0
イメージ 1




5月2日(金)樋口一葉生誕142周年


明日からGW後半で、お出かけの準備をされている方も多いでしょう。

最近は、海や空で交通機関の信頼性を損なう事故が多くて不安になります。

韓国の海難事故は、語るに落ちるとは、ああいうことかと思えるほど
報道される度に失望することばかりで、亡くなった人たちが浮かばれないですね。

日本は、海運会社も救命機関もしっかりしているとは思いますが、
反面教師で、一層の努力をしていただかないと・・・
事故を広げるのも止めるのも人間、最後は人の力が頼りですからね~

お気を付けていってらっしゃい! 
・・・なんてグダグダ書かれると、楽しいバカンスに縁起でもないか 

  

ノンビリ過ごしている私が、今ハマっている食べ物は、
ミスタードーナツの「クロワッサンドーナツ」です。



イメージ 2


フランスパンのクロワッサン生地でドーナッツを作った物ですが、

サクサクでバターの味もあり         
甘いクリームをサンドしてあって、さらに蜜がけ・・コレが旨い


ポンデケージョのようなモチモチ食感もいいですが、
クロワッサンのサクサクした食感も、とっても好き!

日頃は、糖分や脂分をチェックする私ですが、これに関しては無視

よく女子が、意に反して甘い物を食べる時の表現で罪悪感と言いますが、
食べてる時は至福感いっぱい、罪悪感も後ろめたさも無いッス・・・


ちなみに、写真のメープル&エンゼルホイップ1個で、公表されている成分は
エネルギー359Kcal 蛋白質3.5g 脂質25.4g 炭水化物28.3g

WOW、見なきゃ良かった・・・
             性懲りもなく、昨日も買って来ちゃった


昼食の後に、一日一個だけ。 夜は食べないようにしています。 
せめてもの慰めで~す。


鮭とごぼうと空豆の炊き込みご飯

$
0
0
イメージ 1





5月3日(土 憲法記念日)

平和と文化を重視している日本国憲法が制定されたことを記念する日です。
改憲やら、集団的自衛権やら、昨今難しい議論がされていますが、
平和を守る国だからこそ、他国から信頼されていることも忘れないで欲しいですね

地球という小さなボールの上で、あっちこっちキナ臭いことが多くて・・・



さて、先日スープを作った残りの新ゴボウで炊き込みご飯を作りました。

鮭があったので入れたら彩りがよくなりました。
パスタを作ろうと、買い置きしていた冷凍の空豆も一緒に入れました。
生の空豆も、この時期になると出て来ますが、高いんですよね~


イメージ 2



◎材料
米:2合
塩鮭:大きさによって1~2切れ
ごぼう:細めのもの1本
冷凍空豆:適量
シイタケ:2枚(出汁を取った後の干しシイタケ)
酒:小さじ2
醤油:小さじ1(鮭の塩分を加味してね)
出汁:400cc

◎作り方
1,昆布、干しシイタケ、煮干しを半日水に浸して出汁をとる。
 (これは私流なので、どれか一種類でも、ダシの素でもOK)
2,米をとぎ、水に浸してからザルに取って1時間ほどおく
3,ごぼうの泥と皮をタワシで落とし、ささがきしておく。
   冷凍空豆は自然解凍する。(生ならサヤから出して塩ゆで)
   鮭は焼いておく。干しシイタケをみじん切りにする。

4,鍋(炊飯器)に米と出汁(調味料+出汁で400ccになるよう)を入れ、
   鮭とごぼう、シイタケを入れる。
5,17分炊飯する。(炊飯器の場合は、器具にあったモードで)
6,炊き上がったら、空豆を投入し、20分ほど蒸らす。
7,出来上がったら、鮭を取り出し、骨を取り除いて混ぜ合わせて出来上がり。


やっぱり、ゴボウはいいダシが出て美味しいな~

富士の残雪、多し

$
0
0

5月4日(日 みどりの日)

きょうが、みどりの日ですね。

この日が誕生日の知り合いがいますが、皆で「休みじゃなくてお気の毒~」なんて
茶化してましたが、祝日になって、それも無くなりました。

8月11日が祝日になる事が決定したようなんですが、「山の日」という名称になるようですね。

「海の日」があるなら、山の日だってあってしかるべきだろう
海なし県はあっても、山なし県は無いからね・・・ということと、
お盆休みを取りやすくするためにだそうです。

「やま~があっても、山梨県」なんて謳いませんでした?他は忘れちゃったけど


これで、祝日がない月は、私の誕生日のある6月だけとなりました。

農耕民族なんだから「雨の日」なんてどう?
・・・その日が晴れたら、シャレになんない? ソリャソウダ



富士山は、この時期になると雪解けが始まります。
昔は、雪形が現れると田植えの時期と言われていたそうです。

しかし、今年はまだまだ雪がベッタリ残っています。

これは、今朝6:30の姿です。(900ピクセルになっています)


イメージ 1



例年ですと、もっともっと、雪は少なくなっているんですけどね・・・

山梨県側は、雪崩があって、スバルラインが不通でしたが、
やっとGWギリギリになって通じるようになったとか・・・

やはり、この冬の寒さは尋常じゃなかったんですね~


ニラ玉焼きそば

$
0
0
イメージ 1





5月5日(月 こどもの日)

今朝は東京で大きな地震があったようですね。
こちらは震度3を記録したとのことですが、
眠っていて起きなかったので、家ではたいした揺れではなかったようです。

飛騨地方では、数日、地震が群発しているようですし、不気味です・・・

でも、ローカルの週間地震情報を見ていると、
震度1~以下の小さな地震って、毎日無数に起きているようです。

規模が小さいので報道されないだけ。
地下では、絶えず動き続けているんですねぇ


GW、やはり事故が起きて、こどもの日を前に、小さな犠牲者が出ましたね・・・
子どもは何をするか判らない生き物だと思ってないとダメですね。
後半もお気を付けてお過ごしください。



これも、冷蔵庫の片付け的料理

焼きそばある。キャベツはないけど、ニラはある・・・
キャベツの代わりに、ニラで焼きそばを作ったらどうだろう?

ニラは、すぐ火が通ってクッタリして、風味が無くなりやすいゾ
じゃ、ニラ玉にして乗っけちゃえ~~


イメージ 2



材料は、焼きそば、ベーコン、ニラ、卵
調味料は、塩コショウ少々

焼きそばは、ベーコンと一緒に塩味で作りました。
        表面を、焦がしめに焼いても面白いかも~
ニラ玉を別に作って乗せます。


焼きそばとニラ玉を交互に食べても、焼きそばと混ぜ合わせながら食べても。
意外と美味しいです。




やっぱり、ご飯が好き

$
0
0
イメージ 1





5月6日(火)

たけのこの炊き込みご飯


イメージ 3





















●材料
米:2カップ
出し汁:2カップ(400cc)
ゆでタケノコ:1個
油揚げ:1枚
にんじん:1/2本
いんげん:適量
☆調味料
 うすくち醤油:大さじ1
 塩:少々

●作り方
1,米は洗って30分以上水に浸し、ザルに上げて水気をきる。
2,たけのこは、穂先は薄切りにし、根元は1cm角に切る。
  油揚げは3mm角に切る。
  にんじん、いんげんは大きさをそろえて切る。
3,炊飯器に米、出し汁、☆調味料を入れ、
  たけのこ・油揚げ・にんじん・いんげんをのせて普通に炊く。
4,炊き上がったら軽く混ぜ、器に盛り、好みでみつば、木の芽をのせる。


静岡県では南伊豆町の「一条竹の子村」が有名で、
お刺身や焼きたけのこなど、いろいろな料理が食べられます。

また、たけのこ掘り体験もできます。
GWは賑わったんじゃないでしょうか~

「○○村」といえば、天城に「いのしし村」って、あったんですが、
イノシシが曲芸したり、
イノシシレースもあって、コースを外れたり動かなくなるイノシシも出て来て、
初めはバカにしてたけど、すごく面白かった。
一等を当てた子もいて、イノシシのぬいぐるみ貰いましたっけ。

でも、お客さんが減って、数年前に閉園しちゃいました。
まぁ、一度見ればいいようなものですからね~
         イノちゃんは、オシャレじゃないし、可愛くもないし



チャプチェ豚丼

「チャプチェの素」を売っていたので、思わず買ってしまいました。
肉と野菜を入れれば出来ますってヤツです。

チャプチェって、韓国の春雨煮のようなものと言えばいんですかねぇ

某牛丼チェーンで「チャプチェ牛丼」のCMを観ていて、美味しそうと思って
牛肉より好きな豚肉でやってみました。



イメージ 2




















チャプチェには肉を入れずに、彩りでパプリカとピーマンを入れました。
豚肉は、みりんと醤油で照り焼き風に焼きました。

ご飯は十六穀米です。基本、ご飯は毎日雑穀米です。

私的には、小豆や黒豆は要らないんだけど・・・
ポリフェノールが摂れるかもと思って、そのまま食べています。

やっぱり、ご飯は美味しいですよね~


ブログ更新をひと休み。

$
0
0


皆さま、楽しいGWを過ごされましたか? 
もうグッタリ??  疲れもいい思い出ですよね・・・

皆さまがお帰りになったら、自称すき間トラベラーArchitecちゃんの出番です。

明日(8日)から10日間ほど出かけてきますので、
                    ブログの更新をお休みします。

今日は、支度や準備などに追われます。


イメージ 1




戻りは、来週末になりますので、また今月下旬にブログを再開します。
それまで、お元気でお過ごしくださ~い。

では、またね!


角館 ~残る桜も ちる桜~

$
0
0



イメージ 1



イメージ 2



イメージ 3



イメージ 4



イメージ 5



今年の角館の桜は、もう終わってしまったが
なんとか、残った最後の桜を観ることが出来た。



                         (2014/05/12)

*すべてやや大きくなります。

Architec旅日記~北前船ロード 出羽編~ その6 / 湯沢から横手・増田町へ

$
0
0

5月13日(火) 晴れ時々曇り 気温21℃~22℃

角館の宿をチェックアウトして、きょうも宿替え移動日。
内陸部を通って行きますから、今日は海辺ナシ!
ブログ友さんたちが紹介していたので、どうしても寄っていきたくなったのです。

まずは、こまちで大曲へ

イメージ 1

奥羽線で湯沢に到着。

イメージ 2


コインロッカーに荷物を預けます。
私のコロコロバッグは、中型ロッカーでないと無理ですが、大型を使うまでもないのです。中間サイズがないと100円高くなるのでガッカリです・・・
セコいようですが、回数が多くなるとシビアになってきますよ。

駅の中にある観光案内所で湯沢の地図などをいただく。
この後行く横手市の「増田中町」のことを聞いてみる。
湯沢から出ているバスもあるので、それにすると湯沢で余裕が出るかなと思ったワケです。
湯沢から出ているバスは少ないとのことで、それはあきらめました。

まずは湯沢市内を少し歩いてみます。

「旧雄勝(おがち)郡会議事堂」明治24年竣工
 湯沢市役所や図書館に転用後、保存されているそうです。

イメージ 3


2階は議場だったそうで、周囲の柵は保存のため復元されたそうです。

イメージ 4


♪小野小町の産まれ在所を知らねのけ?と秋田音頭に出て来るのが湯沢らしい・・

イメージ 5


大町商店街を通る。
大正か昭和初期っぽい建物が並ぶけど、これが古い物か新築か、またはミックスなのか、チョッと私の眼では、判断に迷う。
総て古いなら、相当モダンな商店街だったということになるけどな~

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9


湯沢は酒造業が盛んだった町で、酒蔵見学も観光ポイントになってますが、
観光案内所の話では、以前と比べると酒蔵も相当数が減ったということでした。

「武家屋敷の面影」と紹介されている内町へ行ってみます。

イメージ 10

湯沢は、佐竹南家の領地で、佐竹家の墓所もあります。

イメージ 11



イメージ 12

イメージ 13

「面影」と遠慮がちな紹介も分かる。佐竹北家の角館と比べると、やはりね・・・

イメージ 14


再び、大町の外れに出て来ました。

イメージ 15


この家は事前にチェックしてましたが、
近くに居たおばさんに「ここは病院だったんですか?」と尋ねてみたら
「いやぁ!・・金貸しだったんだ~」とのこと。
つまり、金融業だったんですね。

向かい合って本家と別邸があるので、相当裕福だったでしょう。


イメージ 16

イメージ 17


ここで、湯沢はお終いにして、電車にのって2つめの駅に向かいます。


十文字駅(横手市)

イメージ 18

待合室が立派なこと! この町のある特徴を現してますよ。

イメージ 19


駅前でバスを待ちます。ここも人が通らないな・・・

イメージ 20























バスで5分ほどで「増田中町」に到着。
ここは、平成25年に重伝建地区に指定されたばかりの町なのです。

まずは、横手に来たから「横手やきそば」を食べないとね~

B級グルメで有名になりましたが、B-1グランプリが始まる前に、
富士宮でやきそばを盛り上げる食イベントが開催され、熊本の太平燕(たいぴーえん)などと共に食べた事があります。

イメージ 21


私は、麺の柔らかさや味付けなど、富士宮より横手焼きそばのほうが好きですね。
こっちのほうが、冷めても美味しく食べられそうです。
ただ、私は、福神漬けはチョッと・・・


増田の町並みは、一見他所の古い町並みと変わりばえしないように見えますが
中に入ると、内倉が凄いことになってます。

14軒の店や住居を有料・無料で公開していますが、いつも全部観られると言うことではなく、交代で公開しているようです。
なんたって、どこも今でも現役の営業店舗ですからね。そこも良いですよね

当日の公開は藏の駅に掲げられています。
一軒100円~200円の見学料を、その家ごとに支払うようになっていました。


藏の駅(旧石平金物店)

イメージ 22
イメージ 23


佐藤又六家住宅・店舗
 2階の窓から藏が見えているのが分かりますか?


イメージ 24

イメージ 25


「どうして、どの店もこんなに立派な藏を持っているんですか?」と尋ねたら、
「見栄ですね。隣がこれくらいの蔵を建てたなら、我が家はさらに良い物を造ろうと競い合ったんですねぇ・・・」とのこと。

たしかに、増田で一番古いとか、一番大きいとか、今でも特徴を掲げていました。


日の丸醸造
 ここは無料ですが、予約が必要とか・・・
 表にいた人が「ウチ観た?」と聞くので「予約してないから」と言ったら、
「遠くから来たんだからいいよ、観て」とのこと


イメージ 26
イメージ 27


どこも、鞘付きの土蔵で、美しいこと!
黒漆喰ですが、家の中にあって外気に晒されてないので、黒光りしてます。


山吉肥料店

イメージ 28


イメージ 29


どこも素晴らしい藏ばかりですが、私が4軒観た中で、一番感動したのがこの家の藏でした。
左官さんの見事な技術に圧倒されました。

どこの左官さんかお尋ねしました、名前はもう忘れましたが、この近くの名工と呼ばれた職人さんだったとか・・・

壁を触らせてもらいましたが、本当にウットリするくらい滑らかでした

イメージ 30
イメージ 31

この家のおじさんの説明が面白くて楽しかった・・・
この冬の大雪で家の中があちこち壊れたそうで修理中でした。

詳しくは、また後日記事にします。

そうそう、増田町のマンホールはマンガ「釣りキチ三平」でした。
作者の出身地らしく「まんがミュージアム」もありましたが、藏のほうがいいんじゃない~?


イメージ 32


さて、再びバスで、今度は十文字を越して、湯沢まで戻ります。

湯沢から酒田に普通車のみで向かいます。
路線を3つ乗り換えていきます。

湯沢  奥羽本線  新庄  陸羽西線  余目  羽後本線   酒田

これが、この旅では未だかつて無いほどの連絡の良さで・・・
各駅わずか3分待ち、都会並みのスピードですが、
         こちら、重い荷物を抱えていてどうなることやら・・・

新庄駅はフラットで良かったけど、余目駅では跨線橋を渡りました。
      写真なんぞ撮ってるヒマもなく、心臓バクバクでした~~

酒田に着いて、夕食にしたいのですが、またしてもホテルの周囲は居酒屋ばかり
今夜は遅いから、しかたなくホテルの前のお店へ(カメラ忘れて写真ナシ)

さて、明日は、酒田じゃおまへんか~

Architec旅日記~北前船ロード 出羽編~ その7 / 酒田は北前船のテーマパークや~

$
0
0

5月14日(水)晴れ 26℃

酒田の朝 奥が日本海です。

イメージ 1


きょうは一日、酒田市内を巡ります。

予定では、最初、遊佐(ゆざ)町の「旧青山家本邸」に行くつもりでした。
小樽の「ニシン御殿」で有名な青山家の本邸です。
しかし、今年は最寄りのバス停までの路線が運転しておらず、遊佐駅からはタクシーか、歩いて1時間もかかるので、諦めました。

遊佐の目的はそこだけなので、むしろ酒田でゆっくり過ごした方がいいかと・・・

駅前から、酒田市内の高砂にまずはバスで行ってみます。

イメージ 2

イメージ 3


郊外には、本間家当主・本間光丘(ほんまみつおか)が植林したという松の防風林が延々続く・・・

イメージ 4

高砂到着

イメージ 5























防風林の向こうは、すぐ日本海。風力発電のプロペラも見えます。
住宅地が、すでに砂地です。

イメージ 6


船玉神社
かなり、彫刻も凝っていて良い神社でした。

イメージ 7


ここにある船絵馬を観に来たのですが、建物の内部にあって見えません
近くに、社務所のような建物もありますが、とにかく人が居ない。

格子にカメラをくっつけて、やっとこれだけ・・・観たいなぁ~

イメージ 8


高砂も目的はここだけだったので、帰りのバスを待ちながら辺りを散策・・・
人には全く出会いません。

そうこうしているうちに、またトイレに行きたくなってしまったが、コンビニどころか商店さえ無い・・・
個人のお宅で借りるのも抵抗あるしな~などと思っていたら、おばさんが歩いてきたので、トイレを借りられるような所は無いか聞いてみる。

「お店は無いね~、私の家が近かったら貸してあげるんだけど、今ウォーキングしているから・・」とのこと、あれこれやりとりして・・・
「郵便局は近くにありますか?」と聞いてみたらあるという、やった!

郵便局で「旅行中の者ですが」と事情を説明し、無事借りることが出来ました。
帰り際、局員さんに「ありがとうございます」などと言われ「いえいえ、こちらこそ」「旅行を楽しんでください」とまで仰っていただき、感激です。

高砂から酒田の町中に戻ります。

降りるバス停でブザーボタンを押しましたが、バス停を通過してしまいました。
アレッ?と思っていたら・・・
「寿町で降りるんだったか?・・悪い悪い・・・ここでいいか? 悪かったな~」と、途中で降ろしてもらいました。
もちろん運転手さんの方言は全く分かりません。ニュアンスで理解します。

日本キリスト教団酒田教会

イメージ 9


相馬楼
間口がもっと広いように想像していましたが、意外と狭い。
竹久夢二の美術館にもなっていますが、休館日なのか開いていませんでした。

イメージ 10

隣も料亭でした。

日枝神社~光丘文庫~光丘神社 

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13


酒田は、ホントに本間家が殿様と言ってもいいくらいで、
庄内藩も酒田は本間氏にオマカセ!だったんじゃないですかね~

神社を下って、日和山公園に向かいます。

イメージ 14


山王くらぶ
旧料亭「宇八楼」を資料館として開放しています。
イメージ 15

イメージ 16


イメージ 17


こういうところで、酒田の豪商が遊興したり、情報を交換したりしたんですね。

広間に「傘福」という酒田の飾り物がありました。
伊豆稲取の「雛の吊るし飾り」福岡の「さげもん」と共に三大飾りと呼ばれているとか・・・ここで、稲取の話なんかして大いに盛り上がりました。
酒田のは、雛祭りだけではなく、一年中床の間などに飾るのだとか。

イメージ 18


竹久夢二が逗留したそうで、「夢二の間」と名付けられた茶室もありました。

イメージ 19


北前船を解説した部屋もあり、模型も置かれています。
イメージ 20

建物も面白かったし、展示も興味深く、ゆっくり時間を過ごしました。

さらに日和山に向かっていくと「おくりびと」のロケ地になった建物が
葬儀屋「NKエージェント」となった建物だそうです。これもDVDで確認。
元は「割烹小幡」で、和風な建物が接続しています。

イメージ 21

イメージ 22


皇大神社
 北前船の船員が、出発前に参拝に訪れていたそうです。
 やはり鳥居や狛犬などが寄進されたとか・・・

イメージ 23


ここの階段を上がって行くとすぐ「日和山公園」です。

イメージ 24


















常夜灯
 造った廻船業者の刻印が読み取れます。


イメージ 25


酒田港の眺めが一望・・・やっぱり日和山だけあるわ~
以前、酒田を訪問したときは、ここに来なかったんで、新鮮な体験です。

イメージ 26


池には1/10の北前船が浮かんでます。

イメージ 27


明治期に造られた、日本で一番古いとされる木造灯台

イメージ 28


ここで「方角石」を探しますが、見つかりません。
トイレから出て来た女性二人組に聞いてみますが、「見た事があるけど覚えていない・・・白崎医院に係のおじさんがいるから聞いてみたら?」「そうします」

旧白崎医院
 この病院建築も建築本に載っている建物です。

イメージ 29


アドバイス通り、係の人に聞いたら、向こうの端っこにあるよというザックリした説明でしたが、なんとなく向こうの端に行ってみたら、やっと見つけました。

イメージ 30


日和山を降り、海沿いの道路を歩いて、山居倉庫へ向かいます。


お昼ご飯がまだだったので、お腹が空いて来ちゃった・・・
山居倉庫に行けば、食べ処は絶対あるはず

イメージ 31

















米蔵
イメージ 32

東宮殿下行啓記念館

イメージ 33


米蔵も、こちら側から見た景色がお馴染みですね
イメージ 34


レストランはありました。
でも、2時半から支度準備で、次は5時半からだという・・(まだ時間前だけど)
観光地酒田の観光施設で観光客相手にしているレストランに休憩時間があるなんて考えられな~い・・・コメの資料館なのにさ

仕方がありません、そういう生活スタイルなんでしょう。
出るとき思わず大きな溜息が出ちゃって、失礼だったかしら、でも食べ物の恨みは忘れられないからね~

山居倉庫から町中に行くと、本町で、その昔「酒田三六人衆」と呼ばれた廻船問屋や豪商の邸宅が並んだ町だったのです。

市役所が近いので、職員相手の食堂なんかもあるんじゃないか?と探してみます。
しかし、無いな~、やっぱり町中でも休憩取ってる店がある・・・
やっと、ラーメン屋さんを見つけて食べることが出来ました。もう何でも美味しい


お腹が落ち着いたところで、「鐙屋(あぶみや)」を見学。ここも初めて
井原西鶴の「日本永代蔵」に記述があるとか・・・館内撮影できます。

イメージ 35


同じ通りにある「本間邸」を見ます。当時は日本一の地主。

イメージ 36




















戦時中は軍に接収され、戦後は地元の人に公民館として開放したとか・・・
地方財閥としての解体の憂き目にはあったんでしょうかね?調べてみよう

別邸は現在「本間美術館」となっていますが、本邸を開放した当時から、そこではなく別の所に住んでいるそうです。さすが大地主。

イメージ 37


本間様の入場料は事務所の建物と共通だったが、本邸の館内撮影は出来なかった。

イメージ 38

しかし、酒田のこういった施設は午後4時半で終わってしまうんです。
これからは陽も長くなってくるし、旅人としては時間が勿体ないですね~

私も、ここでThe End
どうしようもないから、駅前のホテルまで戻ります。
やっと、ぼんやり鳥海山が見えた・・・

イメージ 39


夕食は、もう居酒屋に行きたくないから、
本間美術館近くのコンビニへ買いに行って食べることにしました。

きょうは一日探しものが多かったな~。トイレと食べる所・・・
結局、そこが酒田に足りないモノかしら??
でも、楽しい一日でした~、満足です。

イメージ 40



Viewing all 1617 articles
Browse latest View live