∞
右折して洲本城跡、左側には「大浜公園」から洲本港へと続く海がある。
![イメージ 1]()
大浜公園
![イメージ 2]()
![イメージ 3]()
大浜公園
●下の城
![イメージ 4]()
![イメージ 5]()
![イメージ 7]()
![イメージ 8]()
![イメージ 9]()
![イメージ 10]()
![イメージ 11]()
![イメージ 12]()
ちょうど上の城の模擬天守と下の城の居城跡が重なって見える。
![イメージ 13]()
「洲本市立淡路文化史料館」
淡路島と洲本の歴史・民俗に関する資料を展示。
![イメージ 14]()
![イメージ 15]()
![イメージ 16]()
山上の城と登り石垣で結ばれていたという居城跡には、
現在「洲本市立淡路文化史料館」・裁判所・税務署が置かれている。
![イメージ 17]()
![イメージ 18]()
洲本市指定史跡(1983.07.20)
ちょうど上の城の模擬天守と下の城の居城跡が重なって見える。
「洲本市立淡路文化史料館」
淡路島と洲本の歴史・民俗に関する資料を展示。
山上の城と登り石垣で結ばれていたという居城跡には、
現在「洲本市立淡路文化史料館」・裁判所・税務署が置かれている。
洲本市指定史跡(1983.07.20)
名称:洲本城跡(下の城)
時代:江戸時代
所在地:洲本市山手一丁目806-1
所有者:洲本市
管理者:洲本市
=======================================
概要:
「洲本城(下の城)」は、上の城と一体として築城されました。
当初の築城は桃山時代ですが、現在見られる石垣や堀が造られたのは、蜂須賀氏が淡路支配の拠点を由良から洲本に移した寛永年間(1630年代)以降と思われます。
時代:江戸時代
所在地:洲本市山手一丁目806-1
所有者:洲本市
管理者:洲本市
=======================================
概要:
「洲本城(下の城)」は、上の城と一体として築城されました。
当初の築城は桃山時代ですが、現在見られる石垣や堀が造られたのは、蜂須賀氏が淡路支配の拠点を由良から洲本に移した寛永年間(1630年代)以降と思われます。
石垣の内側は礫岩、外側は白い花崗岩を使用しており、見られる城を意識していることが伺えます。
洲本城跡(下の城)の内、石垣と堀部分が指定区域になっています。
=======================================
![イメージ 19]()
洲本城跡(下の城)の内、石垣と堀部分が指定区域になっています。
=======================================
●上の城(写真は洲本市HPほかより転載)
![イメージ 20]()
![イメージ 21]()
![イメージ 22]()
国指定史跡(1999.01.14)
国指定史跡(1999.01.14)
名称:洲本城跡(すもとじょうあと)
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
指定面積:267,852.9
所在地: 洲本市小路谷
=======================================
解説文:
洲本城跡は、淡路島の南東、洲本市街地の南側にそびえる標高約130mの三熊山に所在する、戦国時代から江戸時代にかけて淡路国統治の中心となった山城跡である。
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
指定面積:267,852.9
所在地: 洲本市小路谷
=======================================
解説文:
洲本城跡は、淡路島の南東、洲本市街地の南側にそびえる標高約130mの三熊山に所在する、戦国時代から江戸時代にかけて淡路国統治の中心となった山城跡である。
東西約800mの範囲に総石垣の曲輪が展開する。
大手門を南側に開き、北奥の最高所に天守を配して紀淡海峡を見下ろし、遥か彼方に大阪・堺の市街地を遠望する。
大手門を南側に開き、北奥の最高所に天守を配して紀淡海峡を見下ろし、遥か彼方に大阪・堺の市街地を遠望する。
天守の南下に本丸、続いて南東側に南の丸、東の丸・用水池・武者溜まりを、西側には籾倉、西の丸を配し、北側の急斜面には2本の登り石垣と北側斜面を守る小規模な郭群、10数本の大規模な竪堀を設けている。
各郭の石垣は、ほんとんどは野面積みであるが、隅石垣などの一部には打ち込みはぎの算木積み技法が用いられている。
石材は三熊山産の和泉層群の砂岩及び礫岩である。
各郭の石垣は、ほんとんどは野面積みであるが、隅石垣などの一部には打ち込みはぎの算木積み技法が用いられている。
石材は三熊山産の和泉層群の砂岩及び礫岩である。
洲本城は,戦国時代前期に紀伊の水軍勢力の安宅(あたぎ)氏によって築城されたと伝えられており、江戸時代の地誌「淡路四草」(「淡路常磐草」「淡路草」「堅磐草」「味地草」)は永正7年(1510)の安宅河内守、大永6年(1526)の安宅隠岐守治興による築城の両説を載せている。
天正10年(1582)には、織田系大名の菅氏・仙石氏が短期間この城に拠ったが、同12年から慶長14年(1609)までの24年間は、豊臣系大名の脇坂安治が在城して紀淡海峡・大阪湾を守備した。
天正10年(1582)には、織田系大名の菅氏・仙石氏が短期間この城に拠ったが、同12年から慶長14年(1609)までの24年間は、豊臣系大名の脇坂安治が在城して紀淡海峡・大阪湾を守備した。
脇坂氏が伊予国大洲に移封された後には藤堂高虎、池田輝政・忠雄が淡路を領したが,この時期の城史はあまり明瞭ではない。
元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣秀頼が滅亡すると、淡路一国は阿波徳島藩・蜂須賀氏に加増された。
寛永8年(1631)から12年までの一時期,淡路支配の拠点が「由良城(洲本市)」に移されたが、12年には「由良引け」によって再び洲本城に政治の拠点が戻り、以後明治維新まで洲本城が淡路統治の機能を担い続けた。
本丸跡及び東の丸跡を中心に、織豊期の瓦や碑が出土しており、中には脇坂氏の家紋である「輪違い紋」瓦や朝鮮系め滴水瓦なども含まれている。
本丸跡及び東の丸跡を中心に、織豊期の瓦や碑が出土しており、中には脇坂氏の家紋である「輪違い紋」瓦や朝鮮系め滴水瓦なども含まれている。
方形プランの本丸、平虎口、内柵形、折れを多用した石垣、用水池などの現存する城郭施設は、脇坂段階のものを寛永期以降に一部改修したものと考えられるが、各遺構は長い歴史過程を反映して、築造・改修の時期が複雑に入り交じっている。
遺構の詳細な分類と変遷の解明は今後の今後の研究課題であるが、竪堀群は安宅氏・戦国期段階、倭城との関係が想定される登り石垣(竪石垣)は文禄・慶長期の所産と推定されている。
洲本城跡は、戦国時代から幕末まで、淡路一国の統治の 拠点となった城郭で、海に臨む水軍の拠点城郭としても貴重な遺跡である。
遺構の遺存状況も極めて良好であり、戦国期、文禄・慶長期,寛永期などの各時期の築城技術が層を成すよう累積されている。
よって史跡に指定し、保存と活用を図ろうとするものである。
遺構の遺存状況も極めて良好であり、戦国期、文禄・慶長期,寛永期などの各時期の築城技術が層を成すよう累積されている。
よって史跡に指定し、保存と活用を図ろうとするものである。
☆年表(洲本市HPより)
大永6年(1526):三好氏の重臣・安宅治興(熊野水軍の頭領)が、由良城を本拠地
として三熊山上に築城する。
島内8か所に築城したとされる。
天正10年(1581):織田信長の淡路島攻略の命令により安宅氏が由良城ほかを開城。
羽柴秀吉・池田元助らに降伏する。
天正11年(1582):由良城以下、淡路の各城は仙石秀久の支配下に入る。
四国攻めの水軍の城として、石垣の城を築き始める。
天正13年(1585):秀吉の九州攻めの際に軍律違反を犯して高野山へ追放された
秀久に代わって、脇坂安治が新たな城主となった。
以後、城の増改築を行う。
慶長3年(1598):豊臣秀吉病死。
慶長5年(1600):関が原の戦い。脇坂安治は徳川方に寝返る。
以後、本丸周辺の大改修を行う。
慶長14年(1609):脇坂安治、伊予大洲城に転封となる。
(洲本城の天守は当時、大洲城へ移築されたという説がある)
洲本城は、藤堂高虎が幕府より預かりとなり、城代を置く。
慶長16年(1610):幕府は、姫路城の池田輝政に淡路全土を与える。
輝政の三男、忠雄が支配する。
忠雄は洲本城に代えて、成山城、岩屋城を修築。
大阪城の包囲体制を確立した。
元和元年(1615):大阪の陣で、淡路国七万石は岩屋を除き、阿波藩蜂須賀至鎮に
加増される。
寛永3年(1617):岩屋を含め、淡路全土が蜂須賀家の所領となる。
寛永8年(1631):1631年〜1635年由良城を廃し、洲本城に再び本拠を移す。
由良城下を洲本へ移転させる。(由良引け)
寛永8年(1642):山城は不要とされ、三熊山の麓に政庁機能を移転させ、
山上の洲本城が使われる事はなくなる。
由良城は廃城。
これ以降、明治維新まで稲田氏が洲本城代を務めることとなった。昭和3年(1928):昭和天皇御大典記念として、鉄筋コンクリート製、
四層四階の層塔型の模擬天守を建造。総工費1万円
=======================================
淡路島にある洲本城跡は、洲本港からほど近く、今は海水浴場になっている大浜公園にも近い。
昔は船着場や役所もあって、城代がここから船で出入りしたのだろうと想像できる。
昔は船着場や役所もあって、城代がここから船で出入りしたのだろうと想像できる。
洲本城の存在を、現地に行くまで知らなかったが、歴史を知ると、実に興味深い。
まず、戦国時代は山城で、江戸時代は平城だったということ、
洲本から由良へ、そしてまた洲本へと、行ったり来たりしていたことなどです。
まず、戦国時代は山城で、江戸時代は平城だったということ、
洲本から由良へ、そしてまた洲本へと、行ったり来たりしていたことなどです。
元々が水軍の城だったことや、戦国時代の防備の城ということを考えると、
周辺を見渡せる山上に砦を築くのは当然なこと。
周辺を見渡せる山上に砦を築くのは当然なこと。
関ヶ原以降の江戸時代には、海防の要と考えると平城で沿岸警備にあたった方が便利。
また、時代を通して、由良・福良・岩屋の各港は、本土との交通には重要だったから、
由良に城を置いたというのも分かります。
交易のためには、江井などの瀬戸内海側の西海岸の港が重要であり、政略的には大阪・京都に近い東海岸の由良・洲本を利用したのではないかと思われます。
また、時代を通して、由良・福良・岩屋の各港は、本土との交通には重要だったから、
由良に城を置いたというのも分かります。
交易のためには、江井などの瀬戸内海側の西海岸の港が重要であり、政略的には大阪・京都に近い東海岸の由良・洲本を利用したのではないかと思われます。
その時代によって、最適な場所を選びながら政庁を置いたということでしょうね。
城下町をソックリ移動させるのは、家康による名古屋城築城に伴う「清洲越し」しか
聞いたことがなかったので、淡路島にもあったのかと驚きました。
聞いたことがなかったので、淡路島にもあったのかと驚きました。
地元では、上の城・下の城って区別してるんですね。ローカルでいい呼び方です。
下の城は、地図にも四角形に区割りされた堀が表されていて、はじめは何かと思っていました。
雨がひどかったので、上の城には上りませんでしたが、晴れていれば眺望が素晴らしいそうです。
下の城は、地図にも四角形に区割りされた堀が表されていて、はじめは何かと思っていました。
雨がひどかったので、上の城には上りませんでしたが、晴れていれば眺望が素晴らしいそうです。
(山手1丁目 2018年9月8日)
・