Quantcast
Channel: じゃらんカメラ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1617

青森・深浦町(西津軽郡) / 円覚寺

$
0
0


イメージ 1


●山門
 仁王像は、京都の吉田源之丞大仏師作(宝歴9年~明和5年(1759~1768))

イメージ 2

イメージ 3


イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15


●本堂
 現在の本堂は大正5年~9年(1916~1920)深浦の船大工によって再建された。
 建物の一部に、寛永2年と元禄13年に建てられたお堂の材を再利用しているとか。

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23


円覚寺奉納海上信仰資料(えんかくじ ほうのう かいじょう しんこうしりょう)
国指定重要有形民俗文化財(1981.04.22)

イメージ 24
内訳:船絵馬70点、髷額28点、梶雛形2点、その他6点 解説文:  この資料は、津軽の風待ち港として知られてきた深浦の円覚寺に奉納された海上信仰資料で、船絵馬70点、髷額28点などからなる。  船絵馬は、ほとんどが北前船の航海安全を祈って船主や船頭が奉納したものである。 天保7年(1836)から明治29年(1896)に至るまでの絵馬がまとまって残されている。 そのうち、越前敦賀の庄司太郎左衛門が寛永10年(1633)に奉納した船絵馬は、北前船の前身の北国船の珍しい遺例で、中世的性格をもつ輸送船の様が描写されている。  髷額は、船乗りが海難に際して髷を切って祈り、一命をとりとめた後に感謝の気持をこめて奉納したもので、天保9年(1838)から明治15年(1882)までのものがある。


北前船の風待ち湊として大いに栄えた深浦港の西部に、うっそうとした木立に囲まれ、「円覚寺」 が建っています。

円覚寺は、大同2年(807)に坂上田村麻呂が蝦夷東征のおり、深浦に拠点をおき、陣中に「かけ仏 」と「十一面観音像」を安置させたのが寺の起源と伝えられる古刹。

清和天皇の貞観10年(868)に、円覚法印が、修験道を奉じて諸国の霊山を遍歴、この地に来て観音堂を再興した。寺号は開基に由来している。

その後、初代の津軽藩主為信は深浦港を重要視するとともに、円覚寺を手厚く保護した。
江戸時代までは、修験宗の寺として加持祈祷を行う山伏寺であった。

明治5年、修験宗廃宗に伴い、古義真言宗醍醐派となり、現在に至っている。
津軽三十三観音霊場第10番、俗に深浦の観音様と呼ばれているそうだ。

江戸時代には津軽藩の庇護のほかに、北前船等の商人、船乗りの信仰を集めた寺でもあった。
京・大阪と蝦夷地とを結ぶ北前航路の寄港地で、「澗口観音(まぐちかんのん=港の入り口にあって航海安全・商売繁盛を守護する観音様という意味)」と船頭・水主たちに崇敬さた。
境内には、航海の安全や豊漁を祈る漁師たちの奉納品が置かれている。
宝筺印塔、燈籠、石段などは、福井から運ばれた笏谷石で造られている。
豪商・高田屋嘉兵衛が奉納した「ギヤマン玉」「シャンデリア」も残っているとか。

円覚寺には、北国船、北前船で荒海に生きた船主や船乗りの信仰を集めていた関係で、国の重要文化財を始め、奉納された貴重な資料が、寺宝館に多く残されている。

特徴的なのは「髷額(まげがく)」です。
この時代は、航海中に嵐に遭うと、まずは帆をおろしたり積み荷を捨ててしまった。
それでも助かりそうもないとなると、船乗りたちは自分の髷を切り落として神仏に祈願した。
これは、生還後そのまげを持参し、参拝したものだそうです。

円覚寺の境内に「竜灯杉」と呼ばれる杉の木がある。
その昔、深浦沖で暴風雨に遭った船乗りたちが、髷を切って一心に祈願したところ、この杉から一条の光が放たれ、光に導かれた船は難破を逃れたという。
このような伝説から、竜神が宿る杉だと崇められるようになり、円覚寺に自分の髷を奉納するという習俗が生まれた。


昔の人が髪に対する思い入れは強い・・・直前まで、見学しようと思っていましたが、現地に行ってみると、畏敬の念からなのか、怖くなって見るのを止めてしまった。



イメージ 25



                     (深浦字浜町 2013年10月12日)


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1617