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●三角家
宿根木のシンボル的な住居である。現在は公開民家になっている。
宿根木のシンボル的な住居である。現在は公開民家になっている。
建物のかたちから「三角家(さんかくや)」「舟形の家」と呼ばれている。 川の中州を埋め立てて出来た敷地に隣町から主屋を移築し、土地に合わせて三角形に切り詰められた。 最大限に土地利用を図った知恵と技が見られ、宿根木を象徴する建物のひとつである。 建物内部は、現代まで工夫しながら機能的に使ってきた暮らしぶりがよく分かる。 (現地案内板より)
●宿根木公会堂
敷地は、かって称光寺の塔頭が幕末まであった。
明治期の学校を経て、現在は公会堂が建てられている。
敷地は、かって称光寺の塔頭が幕末まであった。
明治期の学校を経て、現在は公会堂が建てられている。
名称:宿根木公会堂(建設当時は「公民館」と いう名称も使われていた。)
設計:中塚正午(小木の大工)
施工:吉川信一(宿根木の在住)
建築年代:昭和33年(1958) (前身の建物の部材を多く転用している。)
構造形式:木造2階建、桟瓦葺、切妻造り平入り、南面下屋付、東面
●土蔵とその覆屋
一般に土蔵は白い漆喰をさらしています。 しかし、海風等が強い地域では、覆屋(おおいや)をかけて漆喰を保護しています。 この土蔵は三階建てで、入口は4枚の戸で護られている。
●舟板を使った壁
◎腰板 分厚く風格のある板は、千石船建造の際に余ったものや廃船になったものを利用している。 船に使われる板は、一番外側の板でも1寸2分(36mm)ほどある。 これらは、船喰い虫の被害を防ぐためで、数年で取り替えられる。 船には役立たなくなるが、一般家屋には宝のような材である。 造船の残材や派生材は十分に利用され、それがまた千石船の里らしさを演出している。 (現地案内板より)
集落の中央から、やや北のほうに入ったところです。
JR東日本のCMでよく知られるようになった「三角家」が見えて、
宿根木公会堂から白山神社、称光寺と並び、村の中心と言えるエリアでしょう。
JR東日本のCMでよく知られるようになった「三角家」が見えて、
宿根木公会堂から白山神社、称光寺と並び、村の中心と言えるエリアでしょう。
公会堂は、推測で大正3年〜11年頃に建てられた、初代の建物があった。
これは2代目になるそうです。
今でも使われていて、時々は様々なイベントが催されているようです。
壁に書かれたレトロな「公會堂」の文字が、堂々としてていいなぁ〜
これは2代目になるそうです。
今でも使われていて、時々は様々なイベントが催されているようです。
壁に書かれたレトロな「公會堂」の文字が、堂々としてていいなぁ〜
「宿根木見直し調査」によれば、
「三角家(旧深野家)」の敷地は元禄7年(1694) には「又六」の屋号で記されており、すでに今日のように三角形の敷地であったことがわかっている。
その後、 弘化3年(1864)には「彦四郎」と屋号が記されている。
「三角家(旧深野家)」の敷地は元禄7年(1694) には「又六」の屋号で記されており、すでに今日のように三角形の敷地であったことがわかっている。
その後、 弘化3年(1864)には「彦四郎」と屋号が記されている。
昭和24年(1949)頃にこの物件を深野家が購入し、平成18年まで居住していた。
現在は、家主の深野アサ氏が大阪へ転居して空家状態となっている。
現在は、家主の深野アサ氏が大阪へ転居して空家状態となっている。
アサさんが、昭和24年頃に現在地に移転してきた当時、
前の所有者の「彦四郎」石塚サキさん(昭和46年没)からの伝聞によると、
現在の家は、羽茂大橋付近にあった家を買い、移築したものであるとのこと。
前の所有者の「彦四郎」石塚サキさん(昭和46年没)からの伝聞によると、
現在の家は、羽茂大橋付近にあった家を買い、移築したものであるとのこと。
調査が行なわれた平成3年当時、サキさんはすでに故人で、移築された年代や
元の所在地などは追求できなかったようだ。
元の所在地などは追求できなかったようだ。
平成3年修復の際の調査から推測すると、 移築時の造作にも和釘(かいおれ型)が
見られる事から、我が国に洋釘が導入される以前に移築されたものと考えられた。
見られる事から、我が国に洋釘が導入される以前に移築されたものと考えられた。
従って、この地に移された時期は、 上限が大洪水で流出した弘化3年、
下限は、この地方で用いられる釘が和釘から洋釘に移行する時期で明治30年頃とか。
下限は、この地方で用いられる釘が和釘から洋釘に移行する時期で明治30年頃とか。
わずかな情報では推定が難しいとしながらも、
この報告書では建物の移築の推定年代を「明治期」と判断し、
移築以前の地にあった建物の創建年代を、移築より数十年は遡る時期としている。
この報告書では建物の移築の推定年代を「明治期」と判断し、
移築以前の地にあった建物の創建年代を、移築より数十年は遡る時期としている。
また、深野家は町並み保存修理事業の中で唯一居住者のある主屋で、
ほんのさっきまで生活していたかような状態が、残っている住宅だったそうです。
ほんのさっきまで生活していたかような状態が、残っている住宅だったそうです。
ということは、他の補修された家屋は、空き家が多かったということですよね・・・
「塩」の看板が掛かっていますから、当時はお店を営業されていたのでしょうか?
それについては、調査書にありませんでしたが・・・
それについては、調査書にありませんでしたが・・・
三角形の家といえば、同じ新潟県の豪農「伊籐邸」を見に行ったとき、
正三角形に近い離れがあって、畳まで斜めになっていたことを思い出しました。
この家も是非見学したかったのですが、当日は休館で残念でした。
正三角形に近い離れがあって、畳まで斜めになっていたことを思い出しました。
この家も是非見学したかったのですが、当日は休館で残念でした。
◎三角家(深野家)の平面図
![イメージ 26]()
◎宿根木公会堂
![イメージ 27]()
1階に観客席と舞台、2階集会所と控え室を設けて 主体部とし、後に増築された南側の台所と便所部分を付属屋とする。
東側を正面とし、南寄りに正面玄関を設ける。
1階に観客席と舞台、2階集会所と控え室を設けて 主体部とし、後に増築された南側の台所と便所部分を付属屋とする。
東側を正面とし、南寄りに正面玄関を設ける。
木造2階建で、コンクリート基礎に土台を巡らし、柱、間柱、筋交を組んで軸組みとし、小屋 組みはキングポストトラスである。
*図面は「宿根木見直し調査」より
(小木町宿根木 2014年9月8日)
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