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故郷に帰った高田屋嘉兵衛は、故郷のために尽力していましたが、病のために59歳で亡くなります。
やはり、極寒のカムチャツカでの抑留生活が、体に堪えたのではないでしょうか。
やはり、極寒のカムチャツカでの抑留生活が、体に堪えたのではないでしょうか。
病気は、下記の伝記を読むと、今で言う骨肉腫でしょうか?
自分の死期の覚悟もしていたとは、嘉兵衛らしいクールさですね。
自分の死期の覚悟もしていたとは、嘉兵衛らしいクールさですね。
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文政十亥年(1827)初春に至り、ふと翁の背中 俗に手打掛(※てうちがけ=腕の付け根?)というほとりに一種の腫物 即ち毒瘍(どくよう)を発症し、種々療養に手を尽くせども、毫も(※ごうも=きわめてわずかな)効顕(※こうけん=効きめ)これなく、次第に腫れあがりて、終に癒えず。
文政十亥年(1827)初春に至り、ふと翁の背中 俗に手打掛(※てうちがけ=腕の付け根?)というほとりに一種の腫物 即ち毒瘍(どくよう)を発症し、種々療養に手を尽くせども、毫も(※ごうも=きわめてわずかな)効顕(※こうけん=効きめ)これなく、次第に腫れあがりて、終に癒えず。
同年四月五日(太陽暦4月30日)五十九歳を一期として、郷里都志本村の自宅に永眠せり。
偉人翁に於いては此の毒瘍を発せし初めに於いて、すでに之は自分の命取りなりとて、覚悟をきわめ居たりとぞ。
偉人翁に於いては此の毒瘍を発せし初めに於いて、すでに之は自分の命取りなりとて、覚悟をきわめ居たりとぞ。
かくて翁の遺骸は、大なる甕に納め朱詰めになし、之を都志本村 茅生の隈(ちふのくま)なる墓地に厚く埋葬せり。
「高田屋嘉兵衛翁伝」1933年刊より
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「高田屋嘉兵衛翁伝」1933年刊より
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都志の小高い丘陵の頂上に「ウェルネスパーク五色」があり「高田屋顕彰館」他、
様々な施設があります。
そこへ至る道すがらに、高田屋嘉兵衛を祀るものが点在します。
様々な施設があります。
そこへ至る道すがらに、高田屋嘉兵衛を祀るものが点在します。
●多聞寺跡
一段高い所にあるのが嘉兵衛の五輪塔か?
高田屋嘉兵衛の参り墓
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●両墓制
遺体の埋葬地と、霊魂の祭祀対象としての墓石の二つの墓を地所を別にしてもつ墓制のこと。
埋葬地を埋墓(うめばか)といい、イケバカ、ステバカ、サンマイなどともいう。
墓石のある墓地を詣墓(まいりばか)といい、キヨバカ、マツリバカなどともいう。
埋墓が河川敷・山中・海浜などに設置されるのに対し、詣墓は村内の寺・堂などの境内に設けられる。
出典:平凡社「世界大百科事典 第2版」
出典:平凡社「世界大百科事典 第2版」
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●両墓制(りょうぼせい)
日本の墓制の一つ。
土葬を基調とする墓制で、1人の死者のために遺骸を埋葬する墓(埋め墓)のほかに、供養のために詣る墓(詣り墓)を設ける。
遺骸を埋葬した墓で供養を続ける単墓制に対して両墓制とよぶ。
事例はおもに関東から中国、四国地方に分布し、東北、九州地方にはきわめて少ない。
●両墓制(りょうぼせい)
日本の墓制の一つ。
土葬を基調とする墓制で、1人の死者のために遺骸を埋葬する墓(埋め墓)のほかに、供養のために詣る墓(詣り墓)を設ける。
遺骸を埋葬した墓で供養を続ける単墓制に対して両墓制とよぶ。
事例はおもに関東から中国、四国地方に分布し、東北、九州地方にはきわめて少ない。
死後一定期間だけ埋め墓に詣り、それ以後は詣り墓に詣るというのが一般の傾向である。
初七日、四十九日、百か日、一周忌など、死後1年の間の法事を機会に、詣り墓に供養の中心を移す所が多いが、数年、十数年後という土地もある。
初七日、四十九日、百か日、一周忌など、死後1年の間の法事を機会に、詣り墓に供養の中心を移す所が多いが、数年、十数年後という土地もある。
両墓制の個々の事例の成立事情は単純ではない。明治以後、墓地を整備したために、
埋め墓と詣り墓の別が生じたという例もある。
しかし、宗教的に両墓制を支えているのは、遺骸は穢れているが、ある期間を経た死者の霊魂は清浄なものとする観念であろう。
埋め墓と詣り墓の別が生じたという例もある。
しかし、宗教的に両墓制を支えているのは、遺骸は穢れているが、ある期間を経た死者の霊魂は清浄なものとする観念であろう。
日本の葬法は本来二重葬的で、古く「もがり」などとよばれた仮葬と、本格的に遺骸を処置する本葬との二段階があった。
埋め墓での死後の供養は仮葬での供養に相当し、忌みのかかった親族が穢れのある遺骸に近づいて供養を行った形をとどめている。
埋め墓は、地上葬であった仮葬が本葬のような埋葬に変化したために生じたとも考えられる。
詣り墓に移るとき、埋め墓の土を少し持って行くという習俗が広くみられるのは、仮葬地から本葬地への遺骸の移動に対応している。
埋め墓は、地上葬であった仮葬が本葬のような埋葬に変化したために生じたとも考えられる。
詣り墓に移るとき、埋め墓の土を少し持って行くという習俗が広くみられるのは、仮葬地から本葬地への遺骸の移動に対応している。
詣り墓は墓石によって標示されることも多く、両墓制は、庶民の間に墓石が普及したとき、埋葬地とは別の場所に墓石を立てたために生じたとする見方もある。
詣り墓には仏教信仰の影響を受けた、死者の霊魂を供養する聖地の性格が強い。
詣り墓に髪や爪を葬るというのは、高野山など寺院の納骨堂に髪や爪を納めて死後の成仏を願うのと共通している。
単墓制でも、供養堂など詣り墓に相当するような供養施設が墓以外の形で存在する例は珍しくない。
詣り墓に移ったあとも、盆や彼岸などには両方の墓に詣るなど、埋め墓が単墓制の墓とあまり違わない扱いを受けている場合もある。
ーー中略ーー
埋め墓は遺骸供養の信仰に、詣り墓は死者の霊魂祭祀の信仰にかかわっている。
埋め墓には、石を円形に並べて中央に石を一つ立てたものや、小さな丸石を円錐形に積み上げたものなど、古風な墓のしるしと思われる形態のものがある。
出典:小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」
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詣り墓には仏教信仰の影響を受けた、死者の霊魂を供養する聖地の性格が強い。
詣り墓に髪や爪を葬るというのは、高野山など寺院の納骨堂に髪や爪を納めて死後の成仏を願うのと共通している。
単墓制でも、供養堂など詣り墓に相当するような供養施設が墓以外の形で存在する例は珍しくない。
詣り墓に移ったあとも、盆や彼岸などには両方の墓に詣るなど、埋め墓が単墓制の墓とあまり違わない扱いを受けている場合もある。
ーー中略ーー
埋め墓は遺骸供養の信仰に、詣り墓は死者の霊魂祭祀の信仰にかかわっている。
埋め墓には、石を円形に並べて中央に石を一つ立てたものや、小さな丸石を円錐形に積み上げたものなど、古風な墓のしるしと思われる形態のものがある。
出典:小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」
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●現「多聞寺」
多聞寺は高田屋嘉兵衛の菩提寺。
高田家の過去帳も保存。
多聞寺は平成9年(1997)に現在地に新築移転された。
![イメージ 6]()
![イメージ 7]()
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写真はSNS「みんカラ」より
![イメージ 8]()
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嘉兵衛の位牌はここにある。
![イメージ 9]()
多聞寺は高田屋嘉兵衛の菩提寺。
高田家の過去帳も保存。
多聞寺は平成9年(1997)に現在地に新築移転された。
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写真はSNS「みんカラ」より
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嘉兵衛の位牌はここにある。
実際に嘉兵衛が眠っているのは、ウェルネスパーク内の右側にある建物の奥で、
階段を30段くらい下がった所。
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●埋葬地へ
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階段を30段くらい下がった所。
●埋葬地へ
弟金兵衛と並んで眠っている。両墓制でいう「埋め墓」です。
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嘉兵衛の墓
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金兵衛の墓
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嘉兵衛の墓
金兵衛の墓
「両墓制(りょうぼせい)」という言葉を初めて聞いたので、調べてみました。
それで、このような場所に、埋葬地があることが分かりました。
現在の「ウェルネスパーク五色」の全体が小高い丘陵になっていますが、その斜面。
今はそこから海(播磨灘)が見えづらいですが、昔は海が見えたのでしょうか。
それで、このような場所に、埋葬地があることが分かりました。
現在の「ウェルネスパーク五色」の全体が小高い丘陵になっていますが、その斜面。
今はそこから海(播磨灘)が見えづらいですが、昔は海が見えたのでしょうか。
大海原を颯爽と千石船を操った男には、いささか窮屈そうに感じました。
(五色町都志 2018年9月9日)
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