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兵庫・洲本 / 高田屋嘉兵衛の生涯③ 辰悦丸

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●辰悦丸模型(1/30) 「高田屋顕彰館」展示
 
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「辰悦丸(しんえつまる)」は高田屋を代表する弁才船で、千五百石積みだった。

●各地の回船問屋の客船帳に記されている高田屋の船。
 最盛期は38艘の持ち船を所有していたというから、
 5,6艘の手船を持っていれば大規模船主と呼ばれた時代、桁違いの多さだ。
 ちなみに、福井の右近権左衛門は21艘、金沢の銭屋五兵衛は15艘。
 
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●船に関する書類の数々
 弁才船の新造には千両(約1億円)かかったそうで、中古船は盛んに売買されていたようだ。
 
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●「七宮神社」(神戸市)に奉納された辰悦丸の模型船
 七宮神社は、前回の北前船ロード・兵庫津編でも記事にしました。
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神戸市兵庫区の七宮神社には、嘉兵衛が奉納した3艘の船模型が残されていた。
辰悦丸の模型を作成したのは、後に嘉兵衛の娘くにが嫁いだ兵庫・西出町の船大工の棟梁・紀伴左衛門である。

享保20年5月、今の佐比江町、西出町の埋立て完成に伴って、各地の廻船業者、難を此の地に避け、当社(七宮神社)に祈祷する者多し。
なかんずく高田屋嘉兵衛は、諸弟と廻船業を営み、西出町に住居して左記模型船を奉納せり。

・和船模型 一艘 船型和船寛政丸 長さ一丈二尺(3.6m)深さ二尺(60cm)
・  〃   〃   〃 春日丸 長さ   〃    深さ一尺九寸(57cm)
・  〃   〃   〃 辰悦丸 長さ七尺(2.1m) 深さ一尺八寸(54cm)

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かなり大きい模型ですね。1/10〜1/15のスケールになると思います。
しかし、戦災により、神社と共に焼失して、現物は残っていないそうです。
 
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●模型船の板図
 昔の船大工は、こういう図だけで、立体の船が建造できたそうです。
 
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右にあるのは、弁才船の船型の元になった「菱垣廻船」
 
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●復元「辰悦丸」(「ワールドパークONOKORO」展示)
 全長:29.6m 最大幅:9m 帆柱の高さ:14m 1500石積み(225重量屯)
 
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これで舵を切る
 
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昔は、数人でろくろを回して帆や伝馬船の揚げ降ろしをしていたそうですが、
現代の男性にはとても出来ないそうです。
 
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船底が見られるように透明になっている。
 
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乗組員は、船頭・知工(ちく)・水主(かこ)・炊(かしき)など、多くても15人くらいだったそうです。

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昭和60年(1985)、淡路島と四国を結ぶ「大鳴門橋」の完成を契機に、兵庫県が淡路島の経済と文化の振興をはかろうと「くにうみの祭典」を催した。
その中で、淡路人の心意気を示すのにふさわしいシンボルとして、高田屋嘉兵衛の持ち船「辰悦丸」を復元してはどうかという案が検討された。
これに地元の寺岡造船株式会社が協賛。
6500万円の経費と8か月の工期をかけ建造し、兵庫県に寄贈したのが本船である。

この辰悦丸が往時の18の交易港を結び、北海道の江差町に廻航されることになった。
同町で開催される北前船サミットが契機となって、同町青年会議所が熱心に誘致へ動き、廻航計画実行委員会が組織され、兵庫県との交渉の末、実現に至った。

一方、当時の造船史料もほとんど知られておらず、様々な制約のの中で建造された本船は、一部の専門家から「復元船には程遠い」といった辛辣な避難を浴びた。
また、その航海は海上保安庁から自力帆走が許されず、タグボートによって曳航せざるを得なかった。
しかしその勇姿は多くの人々に感動を与え、本事業を通して日本海で活躍した買積船「きたまえぶね」は、広く知られるようになった。

       ーー「高田屋顕彰館」特別展「北前船宣言」より(現在終了)ーー

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※買積(かいづみ)船とは、廻船業者の持ち船で、寄港地を巡り現地で荷物の売買をしながら航海する船のこと。

江差港に到着した復元・辰悦丸の姿
 
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私は、この一件を全く知らなかったのですが、北前船の旅をするようになってから、
各地でこの話を聞くようになりました。
船は、鋼板製で、外壁に木板を貼り付けたものだそうで、純粋な木造船ではないこと、
航海はカッターボートに曳かれていたということでしたが、
この航海では、寄港した各地に船絵馬を奉納していったということが、
当時の船乗りの精神を、受け継いでいるのだな〜と感心しました。

江差で見た復元辰悦丸の奉納絵馬(2013年10月撮影)
 
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●各地にある実物大の復元弁才船

「みちのく丸」
 全長:32m 全幅:8.5m 深さ:3m 帆柱までの高さ:28m
 重さ:約100トン 積載量:150トン(千石積)

 航行距離は、確と分かりませんが、帆を張って自力走航をした唯一の木造弁才船。
 
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2013年10月撮影
 
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撮影した当時は青森市の「船の博物館」に隣接する海に繫留されていました。
現在は、博物館は閉館してしまい、みちのく丸も野辺地へ行ってしまった・・・


「白山丸」
 全長:23.75m 最大幅:7.24m 帆は21反、
 佐渡・宿根木の「佐渡国小木民族博物館」の別館に置かれています。
 船底まで入って見学できます。
 イベントの時には外に出されるようです。
 
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2014年9月撮影
 
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こちらが、明治時代に撮された実際の北前船の様子。
甲板はなく、荷物は山積みだったそうです。相当な重量オーバー。
 
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寛政4年(1792)嘉兵衛は弟たちを連れて、兵庫の堺屋喜兵衛方で船稼ぎを開始。
最初、嘉兵衛は江戸表への灘酒積出しの樽廻船の船夫となった。
故郷で身につけた操船術で、江戸廻りの際、同業者との競争で追い抜くことが多かった。
荷主の信頼も篤くなり、表主(舵取り)から船頭へと出世し、潮流などの研究をして、
常に一番船の名誉を勝ち取った。

嘉兵衛は、紀州熊野に出て、鰹漁に従事し数年で相応の利益を収め、再び兵庫に戻り、
寛政7年(1795)和泉屋伊兵衛持ち船の沖船頭となり、同8年(辰年1796)初めて羽州庄内に於いて、千五百石積の大船・辰悦丸一艘を新造し、ここに独立生計の一歩を踏み出せり
                    ーー「高田屋嘉兵衛翁伝」よりーー
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当時の兵庫津には「兵庫の北風か、北風の兵庫か」と称された豪商・北風荘右衛門が居て、嘉兵衛は、北風家の援助も受けていたといわれます。
北風家は、加賀の米を運んでいたので、大いに影響は受けていたでしょうね。

操船技術で名を上げ、船主の信頼も得た。もう少し分のいい稼げるアルバイトに出て、
お金を貯め、ついに自分の船を造ったということですよね。
人生設計ハッキリしてますねぇ・・・
辰年に手に入れたから「辰悦丸」としたんですね。多分

この当時の兵庫津は、樽廻船、菱垣廻船の全盛期で、それは単に上方と江戸を往来するもので、誰でもやっていること。
自前の船を手に入れた嘉兵衛は、虎視眈々、次なる一手を考えていたと思います。
いや、次なる一手のために、金を貯めたのかも・・・

それは、人生の大博打だったかもしれない。
嘉兵衛はそういうことができた人だと思います。


            (五色町都志 2018年9月9日〜塩田新島 9月10日)




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