Architec旅日記~北前船ロード 出羽編~ その9 / 楢下は天候乱高下
5月16日(金) 晴れ後雨 気温22℃午前中は山形市内の建築を少し撮り歩きます。 初めて見るモノ、再び見たいモノ・・・「東北六魂祭」の広告などが至るところにありました。山形カトリック教会山形聖ペテロ教会出発したときは晴れてましたが、だんだんと雨になり、風も強くなってきました。霞城公園(山形城址)...
View ArticleArchitec旅日記~北前船ロード 出羽編~ その10 / 山形から米沢
5月17日(土) 曇り 気温 山形14℃ 米沢13℃ 東京24℃きょうはとうとう最終日。まずは山形市内で写真を撮りながら散策。昨日に続いて、再び霞城公園からスタート。やはりここも、他の城跡と同じように、戦時中は軍隊が置かれていたんですね。旅篭町~七日町 昔の町人町で、明治以降も町の中心だったようです。「七日町二郵便局」 初期のコンクリート建造物...
View Article北前船と出羽地方
∞北前船とは、江戸時代から明治30年頃まで、千石船の弁財船で春に大阪を発って、日本海側の寄港地で物資を売買しつつ、北海道地方まで航海し、松前・江差で昆布やニシンの〆粕を仕入れ、また大阪まで上りながら売り捌き、冬になる前に大阪に戻るという流通機構で「動く総合商社」と呼ばれています。一年一航海ですが、当時の和船では人力・風力頼みですから、危険も多く決死の覚悟だったでしょう・・各地には船乗りが出航前に安全...
View Article秋田 / 秋田 土崎湊の面影① 土崎神明社~金比羅神社
∞雄物川(おものがわ)これは奥羽線の車内から撮ったので、厳密に言うとこの河口が土崎湊ではない。水害を防ぐために放水路として開拓されたそうで、現在の秋田港も「旧雄物川」にある。秋田港は、昭和16年(1941)に土崎港町と秋田市が合併するまでは、「土崎港」と呼ばれていた。その歴史は古く、秋田杉や米など特産品の移出港として栄え、室町時代の海事法規「廻船式目」では全国を代表する『三津七湊』の一つに...
View Article秋田 / 秋田 土崎湊の面影② 土崎湊(秋田港)とその周辺
∞土崎は、秋田市の中心部から北西約7km、雄物川の河口に位置する港町。比較的人口が多い地区で、主に住宅街となっており、重要港湾の秋田港を擁する。秋田港は、昭和16年(1941)に土崎港町と秋田市が合併するまでは、「土崎港」と呼ばれていた。古くには安東氏が「湊城」を築き、秋田杉や米など特産品の移出港として栄え、室町時代の海事法規「廻船式目」では、全国を代表する『三津七湊』の1つに数えられた。...
View Article秋田 / 由利本荘 子吉川畔 古雪湊跡
∞写真を撮っている側(手前)が古雪、対岸が石脇側になります。奥に向かえば日本海。風力発電のプロペラが見えます。子吉川は、秋田県鳥海町と山形県遊佐町の境にある鳥海山にその源を発し、幾つもの渓流を合わせながら、矢島町で山峡の地を離れ、以後由利町、本荘市の中心を北西に流下し、日本海に注いでいます。 流域面積1,190k屐⇔路延長61kmです。 子吉川の源流部にある「法体ノ滝」...
View Article秋田 / にかほ 金浦漁港にて
∞「金浦(このうら)漁港」は秋田県の南部の中核漁港として発展してきた。50隻余りの漁船が港を出入りし、水揚げはハタハタを主に、カレイ、ヒラメ、タラなど約2000トン超にのぼり、漁業が、農業とともに町の経済を支えている。金浦漁港は、いまは漁業一本の港だが、かつては天然の停泊港として栄えていたもので、佐渡の小木・青森の深浦とともに、日本海敦賀以北の三大寄港地として有名であった。江戸時代には北前船の寄港地...
View Article秋田 / にかほ 象潟・塩越湊の面影 ①
∞「塩越湊」は本荘藩領で、大澗(おおま)小澗(こま)鰐渕(わにぶち)の総称である。一番大きな大澗は、澗口が12間、深さが8尺から1丈あり、沖には1000石船を12艘繋留できた。遠浅であり、船と陸を結ぶ艀舟が行き交っていた。大澗の近くには幕府領10カ村(小砂川、大須郷、川袋、大砂川、洗釜、中野沢、関、小滝、長岡、大飯郷)の年貢米を一時保管する「御料御蔵」があり、それらの年貢米と領内や矢島、亀田の他藩の...
View Article秋田 / にかほ 象潟・塩越湊の面影 ② 物見山~羽州浜街道
∞●物見山享和2年(1802)に象潟を測量した伊能忠敬の日記には「呑頃(のごろ)にて所々を測る」とあります。 「ノゴロ」は現在の物見山であり、アイヌ語で岬を意味しているといわれています。 日和山だっただけに、眺望は抜群でした。晴れていたらもっと良かった・・・ 汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し...
View Article秋田 / にかほ 平沢にて
∞●仁賀保家陣屋跡(現・仁賀保公園)江戸時代初期(1631)仁賀保家は直参旗本として、江戸に在府し、知行所の平沢に陣屋をおき、明治4年の廃藩置県まで続きました。 陣屋は、役所・米蔵・牢屋などからなり西側、北側は堀で囲まれ西側正面に正門がありました。 現在、仁賀保公園と仁賀保神社・斎藤神社の境内となっています。...
View Article北前船の基礎知識④ 日本海とは・・・
北前船の寄港地探訪記事も、秋田県が終わったところでひと休み。にかほ市の「勤労青少年ホーム」の北前船展示室で一番興味を引いたのがこのパネル日本海の海流模式図でした。流軸(りゅうじく)=海流の中で最も流れが速い部分極前線(亜寒帯前線)=日本海の表層は、北緯40度付近を境に南部と北部に分ける 水温・塩分の不連続線...
View Article山形 / 酒田 船玉神社
∞酒田市高砂にある船玉神社(ふなだまじんじゃ)です。山形県神社庁のHPを見ても、祭神が猿田彦命(さるたひこのみこと)としか分かりません海の近くにあることから、船乗りなどがお参りしたとは思うのですが・・・船玉神社は日本各地にあり「船魂神社」と表記するものもあるようです。また、住吉大社などの摂社、式内社として祀られることが多いようです。大阪の住吉大社HPによれば、猿田彦命は、天孫降臨に際して顕れ、天孫邇...
View Article山形 / 酒田 湊酒田の繁栄① 祈る ~皇大神社ほか~
∞●日枝神社(下日枝神社) 旧町名「台町」側の参道こちらが正式な参拝口となるようです。祭神:大己貴神(おおなむちのみこと)・大山咋神(おおやまくいのみこと) 胸肩仲津姫神(むなかたなかつひめのみこと) 先人、ここに街を開き鎮守日吉山王大権現を祀る。 以来四百九十年風砂を除き砂嚢を積み松林を経営して境内とす。 神佛両殿を祀り山王両宮と称せし時代を経て明治に至り、日吉神社と改称。...
View Article山形 / 酒田 湊酒田の繁栄① 見守る ~日和山~
∞酒田は最上川が日本海にそそぐ河口にある。最上川流域の米の集散地であり、大いに賑わった。「酒田市史」によると寛文7年(1667)3月、河口の安全のために、水先案内の船を置いたという。庄内地方の米を下関経由で大阪に運ぶ西廻り航路が、酒田から北の蝦夷地へ延びたのが北前船の完成型である。これは、酒田への航路に習熟した船頭を輩出したことが契機になったといわれる。船頭が風向きや天候を見定めて出港を決めた日和山...
View Article山形 / 酒田 湊酒田の繁栄③ 運ぶ ~山居倉庫~
∞酒田のシンボル「山居倉庫(さんきょそうこ)」は明治26年(1893)旧藩主酒井家によって建てられた。明治初年の地租改正で農政が混乱したため、「酒田米穀取引所」の付属倉庫として建てられたのが始まり。◎酒田米穀取引所並ニ山居倉庫創立ノ趣意ト経過 旧荘内藩主酒井侯爵ハ、地方産業ノ奨励並ニ福利増進ヲ目的トシ、明治二十六年株式会社酒田米穀取引所ヲ創立セラルルニ当リ、其資金ヲ理事者ニ与ヘラル。...
View Article山形 / 酒田 湊酒田の繁栄④ 営む・1 ~鐙屋~
∞「鐙屋(あぶみや)」は酒田を代表する廻船問屋で、江戸時代を通じて繁栄し日本海海運に大きな役割を果たした姿を今に伝えています。本姓を池田といいましたが、領主最上義光から鐙屋の屋号を与えられてからは、鐙屋惣左衛門と称するようになりました。また、酒田三十六人衆として町年寄役を勤め、町政にも重要な役割を果たしました。鐙屋の繁栄ぶりは、井原西鶴の「日本永代蔵」巻二に記されています。(酒田市)●店●上の間~三...
View Article山形 / 酒田 湊酒田の繁栄⑤ 営む・2 ~本間家旧本邸~
∞袖の浦地区から酒田へ移転を開始して、砂質の荒蕪地を開拓整備しながら本町を中心とした市街地づくりにはげみ、そこに居を構えた三十六人衆屋敷街ができた。そこには旧鐙屋家をはじめとして、本間家・加賀屋(二木家)・西野家・後藤家・根上家・上林家などの廻船問屋や豪商たちが軒を連ねていた。●本邸七社の宮薬医門庭くぐり門明和5年(1768)建築桟瓦葺平屋書院造り母屋:桁行33.6m...
View Article山形 / 酒田 湊酒田の繁栄⑥ 賑わう・1 ~相馬楼ほか~
∞●旧相馬屋(現・相馬楼)国登録有形文化財(1996.12.20)名称:相馬屋主屋(そうまやしゅおく)明治28年(1895)頃建築構造・規模:木造2階建、瓦葺、建築面積483所有者:株式会社平田牧場 相馬屋は江戸時代末期から続いた料亭で,主屋は明治27年の地震時の大火によって焼失した直後に,残った土蔵等を取り込んで建設したものである。...
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