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香川・丸亀 / 塩飽本島 ⑧ 笠島港

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表通りから港に近くなるにつれ、庶民的な造りの家屋になっていく。

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●笠島港

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背後にそびえる山は「遠見山」で、標高は100mくらいだという。
名前と、位置や適当な高さからして、船乗りの日和山だったのではないか?

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遠くに瀬戸大橋が見えている

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●尾上神社
 千手寺跡に、「組合立塩飽補習工業学校(明治30年~大正9年)」の生徒によって、大正5年に拝殿が建てられた。

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遠見山への登山道が続いている。

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                    (本島町笠島 2017年9月10日)


「笠島港」は、江戸時代における塩飽廻船の本拠地だった。

新井白石の『奥羽海運記』によれば、
塩飽廻船が御城米船として幕府専用の官船に指定されたのは「完堅精好」なる廻船、「淳朴」にして卓越せる航海技術にあった。
しかも、西廻り航路に成就する廻船の条件として「北海の風潮に習慣せる者を雇募する」ことが必要であった。

それと同時に、塩飽廻船はこの日本海の荒波を乗り切っていけるだけの大型廻船(千石船)だったことも御城米官船として指定された重要な要因であったと考えられる。

しかも、それのみにとどまらず、塩飽廻船がいちはやく幕府権力と結びついていった政治的要因も考慮しなければならない。

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塩飽諸島は瀬戸内海東部、備前と讃岐を結ぶ備讃戸に位置し、もともと「塩飽七島」と呼ばれていた。(現在は28島)

備讃戸は古くより夥しい暗礁と複雑な潮の流れのなかで、来島海峡とともに、瀬戸内海航行の難所とされていた。
ここで育った塩飽の船乗りたちは「塩飽衆」と呼ばれ、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐に際して薩摩国川内の陣へ大坂から兵糧米の輸送にあたり、同18年(1590)小田原征伐にも御用としての軍役に奉仕した。

そして文禄元年(1892)の秀吉の朝鮮出兵には570人余の水主を出したという。
一方、すでに天正18年には秀吉から朱印状が与えられ、御用加子浦としての性格を持っていたが、徳川家康となっても改めてこれを確認した。

これによって、塩飽諸島の650人が人名となり、その中の「年寄」4人を頂点とした
自治が行われたのは、既に前出の記事に書いたとおりです。

正徳3年(1713)の『塩飽島諸訳手鑑』によれば、
塩飽諸島における人口は10,723人、家数は2,026軒、船数は472艘だった。

人名は、本島の泊341軒、笠島235軒と、もっとも多く、
年寄も両所から選ばれて、のち本島の塩飽勤番所で塩飽全島の政務を司った。

廻船業も中心は本島の泊浦、笠島をはじめ、牛島・与島・広島であった。
塩飽廻船の全盛期は寛文期から元禄期にかけて、幕府の西廻り海運の完成を契機に、
幕府御用船として活躍する時期であったと考えられるが、
当時千石クラスの大型廻船200艘を所有していた。

御城米輸送には、塩飽衆だけではなく、対岸にある備前下津井の住民が他国稼ぎで参加していたようだ。

他国稼ぎの行き先は松前・出羽(主として酒田)・越後・越中であり、奥羽・北陸方面から西廻り航路で大坂または江戸へ御城米を輸送するのが内容であった。
短くて3か月、長くは1年も要しており、この場合は御城米積から各藩の藏米の廻米にも従事している。

しかし、正徳3年から100年も経たないうちに塩飽島の廻船数が極端に減少しており、
それとは逆に漁船が増加していることから、廻船数の減少によって他国廻船へ水主として雇われるか他の職業(船大工)などへの転換が行われたことを示している。

少なくとも享保6年から13年までの7年間に塩飽廻船そのものが大きく衰退してゆかざるを得なかった変化があり、塩飽廻船をとりまく客観的情勢に大きな変動があった。

幕府はこれまで塩飽廻船に依存した体制に問題が生じている。
第一は、破船が続出したこと。
第二は、一般に米価が下落しているにもかかわらず、廻船運賃が安くならないという点である。

元禄期には塩飽廻船組頭から従来の御城米輸送上の特権を維持したい旨の嘆願書を提出ている。
廻送運賃については出羽御城米を江戸廻しで、百石につき16両2歩としていたが、
町人(回船問屋)はそれより銀2匁ずつ引き下げて輸送を申し出てきた。

また、町人の船は全国の船を借り集めるので、それぞれの船の国元では藩の蔵米を輸送しているため、いわばアルバイトのような稼ぎとなる。
それに反して塩飽廻船は御城米が第一の役目であるから、毎年9月頃から他の働きを止めて専念してきている。
廻米量が減ってくれば空船も増えて困窮するのは当たり前で、町人より低い運賃で請け負うなどの策を講じていた。
 
そして、享保12年(1727)「御城米廻船入札之事」が布達された。
廻船の調達にあたっては、航路別の運賃、船改め期間の公示により、特定の廻船に限らず、広く町船・商人所有の廻船を雇い船することとした。

従来の塩飽廻船のような「官船」の徴用からより広く廻船を調達していこうとする方式の転換がはかられた。
現在でもあるような入札制度の導入や直営から民営化に転換して活力を入れるのと同じでしょうか。

幕府側の方向転換は否定はしませんし、正常に機能すれば、良いことだと思います。
塩飽衆も決して安穏としていたわけではないが、御用船ならではの不自由さがあって、ままならない点もあったようです。

勢いのある民間企業が力をつけてきたのでは、敵わなかったでしょうね。
とにもかくにも、近隣の浦から出稼ぎを受け入れるくらい忙しかった塩飽も、
江戸時代後期には、自分たちが他国稼ぎをしなければならなくなったのは事実です。

本格的な北前船の時代が到来するのを前に、衰退したのは無念だったのかどうか、
もう推測するのも難しい・・・

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出典
「近世海運史の研究」法政大学出版会刊




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